マネジメント 2017/03/22

善く在り、善い行いをする理由

FROM ハロルド・S・クシュナー
(ケンシェルトンの記事より)

私たちは、現代世界に敷き詰められた罠によって、非常に洗練されていると同時に困難に陥ってもいる。多くの面で豊かになっていると同時に、より重要な面において貧しくなってもいる。私たちは神の領域を矮小化している。神聖な領域に侵入し、そのような領域を「人間のものだ」と賢そうに主張している。

それにって驕れることはあっても、インスピレーションを感じられるものがなくなってしまっている。人間を究極の存在だと扱うのは、空虚な崇拝だ。

テクノロジー崇拝は、本当の崇拝の敵である。テクノロジーは人間によって作られたものだから。究極的には、人間による創造物の崇拝は、私たちが神聖さを崇拝能力を制限することになる。

神は、正しいこと、誤っていることをモラルとしての善と悪として、世界にもたらした。それは重力の法則のように決められているものであり、多数決で決められるものではない。神の基準に従うことは、私自身を高める。私の行動、決断、選択がより高いレベルの意味をもつような本当に人間にしてくれるのだ。

神はあなたの行いを見ている。たとえもし、大多数の人が「いいじゃないか」と言ったとしても、結婚生活を裏切って不倫をしてもいい、という主張はできない。雪は温かい、アイスクリームは野菜よりも栄養がある、と言うのと同じことだ。

私の内部には、そしておそらく私たち1人1人の内部には、不正義に対する直観的な反応があると信じている。あなたの心の声が、こう言うときはないだろうか?「それは間違っている。それに屈してはいけない。」

私たちの中には、善悪を判断する何かが存在しているのだ。正しい生き方、間違った生き方があり、神はそれを真剣に見ている。もしあなたが、特定のものが間違っていると知りながら、それでもそれを行ったとすると、あなたには大きな許しが必要となる。

不適切なことをしたという感覚からの浄化。自分は正しいことをしなかった人間である、と自分で知ってしまったことからの浄化。大きな許しが必要になる。

私が自分のことをどう思うにせよ、神は私のことを、それ以上に思ってくれている。あなたがどれほど人生をめちゃくちゃにしたとしても、神はあなたを見ていてくれる。私たちがいくら失敗しようと、神は私たちを愛してくれる。

私たちは同じように自分を愛し、家族をも愛するべきだ。たとえどれほどの失敗があったとしても。

私の中の一部に、物理的ではない部分がある、それを魂と呼ぶ。私の肉体ではない部分全てだ。私のアイデンティティ、価値観、思い出、ユーモアのセンス。

それらは物理的ではないため、死に従属しない。私の魂は死なない。これは宗教的教義ではない。科学的事実である。議論の余地はない。魂は不死である。魂は物理的なものではなく、死に従属しないからである。

地獄とは、次のことを理解することである。もし私が娘に皮肉をもって接したら、娘は私の孫に対して皮肉をもって接し、それは私のせいである。


地獄とは、次のことに気づくことである。真実が恥ずかしいからといって毎回私が嘘をつくたびに、私の家族が住まうこの世界を欺瞞の世界に一歩近づける票を私は投じている。


天国とは、次のことに気づくことである。たとえ誰からも感謝されなくても、毎回私が善い行いをする度に、そして毎回誘惑に打ち勝つたびに、私の行動によって、世界が永久に良い方向に向かった。

神がいなかったら、誰が私たちにインスピレーションを与えるのだろうか?誰が私たちを導いてくれるのだろうか?誰が私たちを救い、汚れを拭ってくれるのだろうか?私たちが愛と希望と強さを使い果たしてしまったときに誰が補充してくれるのだろうか?

あなたが人生でなし終えなかったことについて、あなたの命を次の命へのつなげていくことによってこれからでも終わらせることを約束してくれるのは誰なのだろうか。

神がいなければ、私たちはこの広すぎて寒すぎる宇宙にひとりぼっちになってしまう。

私には神が必要だ。
私たち全員に必要だ。

ハロルド・S・クシュナー
人気作家。
ベストセラー
“When Bad Things Happen to Good People” の著者。

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