歴史 2018/10/02

大東亜戦争の激戦地④




しかし最近になって、これらの傷病兵らがすぐに全滅したわけではなかったことが明らかになってきた。
当時、ボロボロになった南海支隊を最前線で追い詰めていたオーストラリア陸軍のある大隊の日誌には、歩ける日本兵らが脱出した後の様子が克明に記録されていたのである。


この記録を調べてくださったのは、私と個人的にも非常に親しいピーター・ウィリアムズ博士という、元オーストラリア国防省の戦史研究官であった。
この大隊日誌によると、日本軍の主力が撤退した日付から約10日もの間、オーストラリア軍はそのことにまったく気付くことなく、この陣地を攻撃しているが、そのたびに「強力な反撃」を受けて撃退され、時には相当の死傷者を出して撤退していることが記録されている。


しかし、日本側の記録と照合してみると、そこに残っていたのは、もはや立つこともできない約100名の傷病兵だけであったはずで、つまり彼らが傷ついた体を張って、文字通り命を賭けて10日間も敵を食い止め、脱出した戦友のために「時間稼ぎ」をしていたのである。
陣地を攻撃したオーストラリア軍部隊の「日誌」には、どう見ても動けないだろうと思われるボロボロの傷病兵が銃をとって抵抗してくるため、「我々は彼らを撃たねばならなかった」と記録されている。


実際、主力の兵が全部撤退した後にこの陣地で戦死したある兵士の日記が残っているが、その最後の何日かの記述を見ると、彼は足が立たなくなってもなお、勇敢に銃をとって戦い続ける一方、その人生の最後の瞬間まで日本に残した愛娘のことを思い、その幸せだけを願い、「会いたい、会いたい」と泣きながら死んでいったことが判る。


この傷病兵らの凄まじい「抵抗」は、これまで日本ではほとんど知られることはなかったが、高知放送の若手敏腕プロデューサー・田中正史氏がこの史実に着目し、日本とパプアニューギニア、そしてオーストラリアにおける取材を敢行、ドキュメンタリー番組『ボーンマンの約束 遺骨収容人 70年目の真実』を制作された。
この番組は2012年、高知県のみならず全国放送され、非常に高い評価を受けたが、私自身、わずかではあるが制作に協力させていただいた身であるにもかかわらず、何度見てもボロボロと涙を流してしまうくらいの「感動の番組」である。


このように、最近では若い世代がどんどんと、かつて戦後日本人が長らく手をつけなかった「戦史」に興味を持ち、その掘り起こしを行い始めているが、これはとても喜ばしいことだし、日本政府もが、ようやく遺骨収容に本腰を入れ始めたところを見ても、我が国は少しずつだが、ようやく「まともな国」になり始めたのかな、という気がする。


なお、高知放送の番組のみならず、本書でも、ご遺骨を拾うことを「収容」と表記しているが、これには理由がある。
通常、日本政府がかつての戦地で斃れた人々のご遺骨を日本に持ち帰る場合、それは「遺骨収集」と呼ばれている。
しかし、「収集」とは、本来ならば人間相手に使わない言葉のはずだ。


その証拠に、「ゴミの収集」とは言うだろうが、例えば飛行機事故で亡くなった人々の遺体を「収集する」とは言わないはずだ。
その場合は「収容」という。
同じ理由でゴミは「収容」しない。


この言葉遣いを指摘されたのは、高知歩兵第一四四連隊の元少尉で、ニューギニアとビルマ戦線で戦い、戦後ニューギニアに単身戻って、ジャングルの中で26年間も戦友の遺骨を収容する活動を続けられた西村幸吉氏である。


西村氏の壮絶な人生については、私が監修した『ココダの約束』(ランダムハウス講談社)をご一読いただきたいが、確かに戦後の日本政府や日本人は、戦没者のご遺骨を随分粗末に扱ってきたし、その「正直な感覚」が言葉の表現ににじみ出た結果なのであろうが、読者の皆さんにはこれからぜひ、「遺骨の収容」という表現をお使いいただきたいと願っている。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第三章 ニューギニアの日本兵  pp.129 -131


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