歴史 2018/09/28

大東亜戦争の激戦地③




私自身、ポートモレスビーやラエにあるサー・ヘンリーのご自宅に何度も宿泊させていただき、個人的にも大変にお世話になっている方だ。
一時期は何ヵ月か「居候」をしていたこともある。


そんな時は、毎朝2人で朝食をとるのだが、奥様が作る手料理も最高に美味しく、中でも「サクサク」というサゴヤシから採れるデンプンを使った「ナッツ入り焼き餅」は私の大好物である。


奥様はしょっちゅう、私のためにそれを焼いてくださり、「ハジメ、あなたのためにたくさん作ったのだから、たーんとお食べなさい」と言って大量に振る舞ってくださるのだ。
ちなみに、戦時中、ニューギニア戦線で飢餓状態に陥った日本兵には、この「サクサク」を食べて生き残ったケースも多い。


そのサー・ヘンリーがまだ幼かった時、日本陸軍「南海支隊」がラバウルに上陸、サー・ヘンリーの一家を含む華僑は、後から来た海軍部隊がラバウルの隣のニューアイルランド島に作ったキャンプに移動させられ、終戦までそこで暮らすことになった。


そこからは毎日、ラバウルから零戦部隊が出撃していく姿がよく見えたのだという。
サー・ヘンリーが見上げていた零戦隊の中には、日本でも有名な歴戦搭乗員らが混じっていたことだろうと思うと、不思議な気持ちがする。


やがて、毎日のようにラバウルやニューアイルランド上空で激しい空中戦が演じられるようになったある時、サー・ヘンリーがほかの華僑の家族らと列を作って道路を歩いていたら、そこにアメリカ軍の戦闘機が突然、上空から急降下してきて機銃掃射を浴びせてきたという。
「我々の格好を見ても、こちらが華僑民間人の集団であるということは判っていたはずだ」と、この華僑の重鎮は憤然とした表情で私に語った。


また別の日には、上空で日本の零戦に撃たれたグラマン戦闘機が近くに墜落し、それを見に行ったこともあるという。
操縦席の中では若いアメリカ人パイロットが死んでいるのが見えて、「とても哀れに思った」ということであった。
そして戦争が長引くにつれて、日本の戦闘機隊は、出撃しては数を減らしていったのが、子供ながらによく判ったという。


一方、ニューギニア本島で連合軍の侵攻を食い止めていたのが、安達二十三中将が率いる「第十八軍」を中心とする陸軍部隊である。
当初、ニューギニア本島に派遣されたのは、前述したように、高知の精兵を中心として編成された上陸戦闘専門部隊「南海支隊」である。


この部隊が実施した戦い(モレスビー作戦)の詳細については、拙書『ココダ 遙かなる戦いの道』に詳述したので割愛するが、その最後には、地獄のような環境の中で、傷つき、病魔に冒された日本兵らが、装備に優れた数倍の敵を相手に互角に戦っている。


標高数千メートルのオーエンスタンレー山脈を越え、数百キロを踏破してポートモレスビー攻略を目指したこの南海支隊は、途中で撤退命令を受け、再び急峻な悪路を後退していくのであるが、飢餓と病魔に苦しみ、ボロボロになった将兵らは、昭和17年の終わりには狭い海岸線(ブナ、ギルワ、バサブア)に追い詰められ、そこから約2ヵ月もの間、各種爆撃機と火砲、戦車まで装備し、万単位にまで増強された連合軍と絶望的な戦いを演じることになる。


やがて支隊は、昭和18年1月に戦線から撤退するのであるが、その時すでにまともに歩くことのできる兵士の数は限られていた。
そうして脱出する兵士らは、時には「これから討伐に行く」などとウソをついて、働けない傷病兵らを泣く泣く後に残していったのだが、そのことに気付いた傷病兵らの中には「よし、後ろは任せておけ。俺たちが敵を食い止める。だから、機関銃だとか重いものは全部置いていけ」と言って、歩ける戦友を追い出すようにして脱出させた者たちもいたという。


やがて脱出者らは、夜の闇に紛れ、叩き付けるようだったという冷たく激しいスコールに打たれながら、連合軍の包囲網を突破、途中で多くの落伍者を出しながら、わずかな生き残りだけが、数週間かけて後方の脱出地点にたどり着くことができた。


こうしてかろうじて生き残った兵士らは、戦後も長く、あの時に後に残してきた傷病兵らが、いったいどうなってしまったのかということを気にしていたが、その最期については知る由もなかった。
おそらく彼らが脱出した直後、連合軍がその陣地を攻撃し、残置された傷病兵らはすぐに全滅してしまっただろうと想像する以外になかったのだ。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第三章 ニューギニアの日本兵  pp.127 -129


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