歴史 2018/09/18

「大どんでん返し」が起こった2012年総選挙②




この仲介役の一人は、ジュリアス・チャン元首相といい、マイケル・ソマレ氏と共にパプアニューギニアの独立に貢献した元老の一人である。


第六章で詳述するが、彼は1997年、前途のブーゲンビル内戦で南アフリカの傭兵会社に革命軍ゲリラの鎮圧を要請し、当時陸軍大尉であったナマ氏らの起こした反乱によって首相辞任を迫られた人物である。
このことは、なかなか興味深い。


この電撃的な「仲直り」を報じた『ザ・ナショナル紙』の記事は、「これら4人の元首相たちは、ポートモレスビーのエアウェイズ・ホテルにおいて、新たに連立政権を組むという目標を共同で宣言した」と書いた。


あまりに「電撃的」であり、かつ「拍子抜け」させられる結末であるが、老獪で経験豊か、かつ「建国の父」という国民の尊敬を集めるソマレ氏を始め、3人の首相経験者という「元老」を応援団に迎え入れた第二次オニール政権は、これ以上ない安定要素を得たことになる。


もちろん、自らの帝国崩壊を目の当たりにしたソマレ氏にとっても、「建国の父」としての面目を最後の最後で守り抜き、完全敗北を免れたことになるので、決して悪い話ではなかったはずだ。


一方、ソマレ派やオーストラリア筋からの怪情報攻撃に耐えつつ、自力で当選した元副首相のナマ氏は、こうして最後の最後で権力の座から陥落、以後は野党党首としての道を歩むことになったのだが、氏はもはや、かつてのキング・メーカーとしての輝きを失っていた。
彼は後にメディアにこう語った。


「私は自らをキング・メーカーだと思っていた。しかし、私はピーター・オニールという『怪物(モンスター)』を生み出してしまったのだ」


こうやって眺めると、1年にわたって続いた熾烈な戦力闘争の中で、最も「損」をしたのは、ナマ副首相自身だったかもしれない。


オニール首相のためにカネを集めてはバラまき、自らが代理となってその政敵と戦い続け、これを次々と倒してきたはずだった。
彼はその行為の先に、若き日に願った、「米国諸国や多国籍企業から搾取されない、真に独立したパプアニューギニア」というものを目指したのかもしれない。


しかし、彼の場合は、その手段と取り巻きが悪すぎたし、現代の政治に絶対に必要とされる「高度な情報戦」にも完全に負けてしまった。
そう考えると、ナマ氏はこの1年の権力闘争における唯一の「敗北者」ではないだろうか。


これが政治の世界の非情さというものだろう。
この選挙結果は、おそらくオーストラリア政府が望んだ「最善の形」の一つであっただろうが、そこまで現実に持っていくことに成功したオーストラリアの政治手腕は「見事」だと言うしかない。


最近、中国をバックにして言うことを聞かなくなりつつあった南太平洋諸国の対応に手を焼いていたオーストラリアであるが、さすが「南太平洋の管理者(宗主国)」である。


大切なところで、この地域の混乱を未然に防ぎ、パプアニューギニア周辺における安全保障環境を守り抜いたのである。
そして、このオーストラリアの「凄まじい努力」に、ある意味で日本は感謝せねばならない。


なぜなら、もしオーストラリアがこのパプアニューギニアの政治的混乱に際して、一つでもその対応を間違えていたら、近年、音もなくじわじわとパプアニューギニアの政治や経済に入り込んでいた中国が一気に牙をむき、その権益を急激に広げようとした可能性があるからだ。


さすれば、南太平洋の安全保障環境は一気に不安定化し、オーストラリアからの各種資源の輸入に頼る日本は、その通商ルートの安全を一気に失うことになっただろうし、へたをすれば、中東からの石油輸送ルートの維持さえ危ぶまれた可能性がある。


自国の安全保障と権益維持のためとはいえ、オーストラリアがあらゆる手段を駆使し、陰に陽にパプアニューギニアの政治的安定を必死に維持しながら、時に強硬ば手段を用いることで地域安全保障の崩壊をギリギリのところで食い止めようとしていた間、当時の日本政府はそんなことにさえ気付かず、沖縄でただひたすら「にこにこ」していたのである。


しかし、こんな「鈍感力」をいつまでも維持していると、日本は将来、取り返しのつかない失敗を犯すことになるだろう。
南太平洋、中でもパプアニューギニアという国が日本にとって、どれだけ大切な地域であり、日本の将来を救う可能性を秘めているのかを、私たちは今いちど、強く再認識する必要がある。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第二章 謀略渦巻く「豪中戦争」  pp.118 -120


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