経済 2018/03/20

僕の人生が変わった日




2003年7月26日早朝、私はパプアニューギニア国オロ州ポポンデッタの空港にポツンと立っていた。


この時までの2週間、私は防衛大学校の田中宏巳教授(当時。現在は名誉教授)が計画したニューギニア線の戦跡調査におけるお付き通訳として、人生で初めてパプアニューギニアを訪問していたのであったが、最終日となったこの日、このポポンデッタ空港から首都ポートモレスビーに飛び、午後のニューギニア航空の便で日本に帰る予定であった。


ここは「空港」と言っても名ばかりであり、トタン板でできたボロボロの掘っ建て小屋が背の高いクナイ草の草原の中にポツンとあり、そこがチェックインカウンターになっているだけの「飛行場」だ。
そして案の定、国内線の飛行機は「いつものように」遅延していて、まったく飛んで来る様子もない。


仕方なく私は、その掘っ建て小屋から出て滑走路の方に向かい、朝日に赤く染まるレミントン山から、日本陸軍南海支隊とオーストラリア陸軍が死闘を演じたオーエンスタンレー山脈に続く山並みを見つめた。


そして、これからの人生のことを考えていた。
この視察旅行から帰国すれば、その翌週から東京にある一部上場の商社に入社することが決まっていた。


当時28歳であった私は、翻訳会社勤務を経てスリーランス翻訳者になったばかりの駆け出しで、キャリアも経験も何もない、つまり実力など皆無の「宙ぶらりん」の状態にあった。
そして、翻訳通訳の仕事で食べていくということさえ、まったく考えてもいなかった。


一方で、オーストラリアの大学を出たせいで多少の英語が使えるのだから、それを活かせる仕事でもしようかとも考えていた。
すでに妻子もあったことなので、とにかく「金を稼いで安定させよう」という程度の考えで、仕事は大変だろうが給料も良いという商社系を中心に就職活動を開始したのである。
おそらく、多くの人とほとんど変わらない、普遍的な「志願動機」だ。


そうやっていくつかの筆記試験を通った私は、この年の5月、都内に自社ビルを有する、ある商社の最終面接に進んだ。
そこで出てきた人事担当者は、こう言った。


「うちは年功序列ではないし、給料はいいですけれども、ある意味でとことん体育会系です。男芸者みたいなことをしながら夜中まで接待をし、その後にオフィスに戻って朝まで仕事をする者もいます。それができますか?そうなると、今のあなたの住んでいるところ(平塚市)は遠いので、毎日帰れなくなると思います。それも困るでしょうから、近くに引っ越しをすることはできますか?」


私は当然ながら、「もちろんです」と答えた。
良い給料がもらえて、実力を発揮さえすれば昇進できるのなら、思いきりやってやろうじゃないか、と意気軒昂だったのだ。


そうしたら相手は、「では、今からうちの常務が来ますので、そこで最終的な面接としましょう」と言って姿を消し、数分して「常務」という人がやってきた。ところがその常務は、コワモテの表情で開口一番、


「うちはね、あんたみたいな『英語屋さん』なんていらねえんだよ。だいたい28歳にもなって妻子もいるのに、世の中を甘く見すぎているんじゃないのか!」


と、頭ごなしにケチョンケチョンに言うのである。
それでこちらもカンカンになって、


「そんな状況だから、今こうやって就職活動をしているんじゃないか!それがダメだと言うのなら、大いに結構だ!」


というようなことを言った。
相手は大企業の常務だが、そんなもん、関係あるものか、こちらが若いからと言って何を偉そうにふんぞり返っているんだ!などと思っていた。
今から考えれば「大変に生意気きわまりない」態度である。


そうやって喧嘩して部屋を出てきたら、人事担当者が後から追いかけてきたので、一応「我が身の無礼」を詫びて帰途についた。


そして、駅に向かう途中になって初めて、「わざわざ片道2時間かけて来たのに、俺は本当にバカだな」と反省したが、「まあ、また新たな気持で就職活動をしよう」と思って帰宅した。
そしたら、なんとその会社から自宅に「採用通知」が届いていたのであった。


つまり、あれは噂に聞いていた「圧迫面接」というものであり、あの常務はわざとあの嫌な役目を引き受けてくれていたのだ、ということがようやく判った。
それで私は、その会社が一気に好きになってしまい、そこで思いきり働いてみるか、という気持ちに傾いていった。


そして人事担当者と話をして、防衛大の田中教授と行く戦跡調査から帰国したら、すぐに就職しますということで話をつけ、パプアニューギニアに向かったのであった。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
はじめに  pp. 2-5



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