「イスラミック・マラユ連邦」と、その背後に見える中国の影
このように「石油メジャーの傀儡」でしかない現状に対して大きな不満を持っているボルキア国王は、スルターンとしての実権回復を実現するために描き続けてきた「ある夢」がある。
それが国王自身が「イスラミック・マラユ連邦」と呼ぶ構想だ。
かつてブルネイは、マレーシア領サラワク州とサバ州、ミンダナオ島の一部などを領有していたが、この「イスラミック・マラユ連邦」構想は、それら失われた領土を取り戻し、シンガポールまで吸収して大イスラム連合を建設しようというものである。
これには、スールー諸島のスルターンであり、現在マニラに在住するキラム三世が参加することになっており、またミンダナオ自治地域のイスラム系住民のみならず、ソクサージェン地方の住民も大きな期待を寄せているなど、決して絵空事ではない。
事実、そんな住民の悲願を象徴するがごとく、数年前にはボルキアの名前を冠した世界最大規模のモスクが、フィリピン・ミンダナオ島コタバトに建設されるなど、政治的にはすでに看過できないほど大きなうねりが起きつつあるのだ。
しかしいくら大富豪とはいえ、国王一人で「イスラミック・マラユ連邦構想」を実現できるわけはない。
そこで、自分の「夢」を叶えられそうな相手に工作資金を提供することになるのだが、問題はそれら「出資先」の中に、モロ・イスラム解放戦線(MILF)やフィリピン共産党新人民軍などが含まれているらしいことである。
特にMILFについては、2007年以降弱体化したアブ・サヤフの残党を吸収しており、また数々のテロ事件を起こしたとされるジェマ・イスラミアからも軍事訓練を受けているとの情報もあるなど、その背景は決して穏やかなものではない。
また、中国の影が見え隠れしているのも問題だ。
南シナ海にある膨大な資源を狙う中国は、周辺の反政府勢力に謀略資金を投入しているが、その相手の多くがボルキアの「出資先」と重なっているらしいのだ。
しかし欧米の情報機関ですら、この地域における中国の工作活動の全容をつかんではいない。
この、石油メジャーの支配から脱却し、民主主義を核としたイスラミック・マラユ連邦を作りたいと願うボルキア国王と、それに便乗するかのような中国の動きを、英米が危険視するのは当然だ。
その彼らの焦りを示すかのように、欧米メディアがボルキア国王に関する様々なスキャンダル報道を流すのであるが、事件化したその多くは、石油メジャーによるマッチポンプでさえあるだろう。
しかし、これにさんざんくるしめられてきたボルキア国王は、すでにそのことに気付き始めている。
もし、イスラミック・マラユ連邦構想によってこの地域が不安定化すれば、「スルターンの先祖は中国人だった」と主張する中国は、一気に進出してくるだろう。
さすれば、ロンボク海峡からスールー諸島、ミンダナオ島南部を通過して日本に石油を運ぶ商船隊の安全航行さえ怪しくなるのは時間の問題だ。
このブルネイ国王の「夢」が、我が国の経済的安全保障に大変な支障をきたす可能性があるということを、日本政府はもっと強く認識すべきであろうが、この状況に気付いている人はあまりに少ないと言わざるを得ない。
こんな心配をしていた矢先の2013年2月、ついに深刻な事件が発生した。
フィリピン・ミンダナオ島を出発した200名以上のイスラム系武装集団が、突然マレーシア・サバ州に上陸、近くの村に立てこもったのである。
M16自動小銃などで武装した彼らは「スールー国王軍」を名乗っていたが、つまりは前述のキラム三世の配下の者たちであり、MILFの元メンバーも含まれていたという。
これに対し、マレーシア政府は警察と国軍をただちに派遣、しばらく膠着状態を続けたが、3月になってついにこの武装集団に対する一斉攻撃を開始した。
F18戦闘機三機による空爆から始まったこの作戦では、「スールー国王軍」とマレーシア側に70名近くの死者を出すこととなったが、これはまさに、今や日本の主要石油ルートとなった「ロンボク・マカッサル海峡ルート」のすぐ目の前で、その安全を脅かしかねない新たな展開が始まったことを意味している。
一方、この「ロンボク・マカッサル海峡ルート」を不安定化させるもう一つの深刻な可能性がある。
それが、その「時期」まで明確に指定されている、中国海軍の進出である。
平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第一章 いま、南太平洋で何が起こっているのか pp. 33-35