歴史 2018/07/28

ヘレン・ケラーと身体障害者福祉法


From:岡崎 匡史
研究室より

太平洋戦争の惨敗は、多くの日本兵たちに暗い影を落とした。

戦争の犠牲となり手足を失った疾痍軍人たちは、街頭募金活動をする。彼らの哀れな姿に「お国の犠牲になった人々を放置してよいのか」という世論が沸騰した。

戦時中から日本国民は、食糧や衣類を倹約し、女性達は戦争協力のために大事な貴金属までも寄付した。こうした苛酷な状況下では、病気や障害を抱えた人々は不利益な立場に追い込まれ、差別や偏見を受けて苦しんできた。

身体障害者に対する否定的なイメージを払拭し、「身体障害者福祉法」を成立させるには多くの人々の助力があった。

奇跡の人


その一人が、「奇跡の人」と呼ばれたヘレン・ケラー女史(Helen Keller・1880〜1968)である。

米国生まれのヘレン・ケラーは、2歳にも満たないときに原因不明の高熱と腹痛に襲われた。命はとりとめたが目と耳に障害をきたし、光と音から遮断された生活を余儀なくされた。

しかし、家庭教師アン・サリヴァンの献身的な指導と教育により、言葉を覚え、喋ることができるようになった。勉学心に燃えたケラーは、ラッドクリフ女子大学に入学を果たす。

彼女の偉大さは戦前日本の小学校でも教えられており、ケラー女史は1937(昭和12)年に日本を訪れている。

ヘレン・ケラー・キャンペーン

身体障害者に関する政策は、GHQの福祉政策で遅れをとっていた。なぜなら、GHQは「身体障害者行政」が「疾痍軍人優遇策」だと疑念を抱いたからだ。

そんななか、本格的な身体障害者対策に取り組むため、「ヘレン・ケラー・キャンペーン委員会」が結成された。

1948(昭和23)年8月 、日本側の熱意に応えて、ケラー女史は2度目の来日を果たした。

ケラー女史は、1948年8月29日から10月28日までの約2ヵ月間にわたり積極的な活動を行う。GHQが用意した特別列車で全国15都市を訪問し、25回の講演をこなした。

宮中表敬訪問

ケラー女史は首相官邸における政府主催の懇談会に臨み、日本政府及びGHQ高官と会談。滞在中に数多くの講演を精力的にこなし、都市部のセンターを訪問してリハビリテーション活動の重要性を訴える活動をした。

9月6日、天皇皇后陛下と謁見する。このとき、和子内親王、厚子内親王、貴子内親王も同席した。ケラー女史は、皇后両陛下とは昭和12年以来の再開で、11年ぶりの握手を交わした。

敗戦日本の身体障害者の福祉と救護について意見を交換し、皇后陛下はケラー女史のためにお香を焚いた。ケラー女史には、銀製香炉や香盒(こうごう)などがプレゼントされた。

そして、ヘレン・ケラー・キャンペーン委員会に対しては、奨励の思召しとして天皇・皇后・皇太后より金一封が与えられた。

ケラー女史の献身的な活動により、日本でも視聴覚障害と身体障害者の問題に関心が寄せられ「身体障害者福祉法」の機運が高まる。1949(昭和24)年12月26日(施行:翌年4月1日)に「身体障害者福祉法」が成立した。



ー岡崎 匡史

PS. 以下の文献を参考にしました。
・宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍、2017年)
・日本ライトハウス21世紀研究会編『わが国の障害者福祉とヘレン・ケラー』(教育出版、2002年)
・GHQ/SCAP『GHQ日本占領史 第23巻 社会福祉』(日本図書センター、1998年)
・葛西嘉資、仲村優一「戦後社会福祉制度体系の原点をさぐる」『月刊福祉』 1986年

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