歴史 2018/10/16

高砂族だけではない台湾の「親日」②




そんな国民党系の人間の横暴が1年以上も続いた昭和22年2月28日、それまで耐えに耐えていた台湾人らは、ついに一斉蜂起。
ラジオ局を占拠すると、禁止されていた「軍艦マーチ」を国じゅうにかけ、「大日本帝国陸軍○○部隊の者は速やかに××に集合せよ!」「元△△飛行隊の者は、何時に台北のどこに集結せよ!」などと大音響で呼びかけた。
やがて興奮した数万もの台湾人が国民党に戦いを挑み、中には日本軍の制服を着て戦った者もいた。


この間、「日本の援軍が基隆に上陸した」という噂が流れるなどし、一時は国民党をかなり追い詰めたものの、重武装の国民党軍が中国本土から台湾に上陸し、アメリカから供与された最新兵器で反国民党運動家らを片っぱしから虐殺していった。


こうして台湾人らを徹底的に鎮圧した国民党は、その後40年にわたって世界史上最長とも言われる戒厳令を敷き、日本統治時代に教育を受けたエリート層ら十数万人を逮捕投獄し、その多くを処刑したのである。
こうして虐殺された台湾人は、数万人にのぼるという。


私にそんな話をしてくれたこのご主人は、その「白色テロ」の時代を振り返り、


「あれこそ暗黒の時代と言うんですかね。その時に私はね、『よし、こうなったら船員になってやろう』と思いましてね、それで戦後はずっと船乗りとして働いたんです」


と、かつての自らの人生をほんのわずかに誇るかのように言った。


「そうですか。でもなぜ、船員になられたんですか?」


よく飲み込めない私が問うと、


「そりゃあなた、当時から私は『お兄さんの国』に帰りたくて仕方なかったんですよ」


と言われる。


「では、お兄さんが当時の日本におられたのですね?」


わけの判らないまま再び問うと、この老紳士は笑って答えた。


「いいえ、『お兄さんの国』というのは、我々台湾人にとってのお兄さんの国。つまり、日本のことですよ」


こう言われて、当時、そんな感情が本当に残っていることなどほとんど知らなかった私は、心の底から驚いてしまったのであった。
ちなみに、このご夫婦は戦後もずっと、互いに日本語で会話を続けていたのだという。


「私たちはね、教育も全部、日本人の先生から日本語で習いました。今でも家内とは、こうして日本語で話しております。その方が、互いに細かいところまで話すことができますのでね」


と言うのだ。
この時、私は初めて、台湾という国がここまで親日であるのか、ということを肌身で痛感したのであった。


そういえば、1年ほど前、台湾を訪れた際にも面白い経験をした。
当時は、台北の「三越」前で数百人の国民党系支持者が、尖閣問題で日本を糾弾する大規模なデモ行進を行っていて、「台湾にも反日の人たちがいるのだな」と残念に思ったが、たまたま乗り合わせたタクシーの運転手さんが傑作であった。


彼は、そんなにうまいとは言えない日本語と中国語を使って、「自分は日本人だ」と主張するのである。
どういう意味だろうと思って尋ねると、


「ワタシ、昭和17年の生まれ。生まれた時、ここ台湾は日本だったよネ? だから、私も日本人ダヨ! 今、尖閣問題で騒いでいるヤツラ、みんな馬鹿者ダ。あそこ、どう考えてもニッポンの領土デスヨ! 台湾人はとっても恥ずかしい!」


と言う。
そうか、彼らが生まれた時、ここは日本だったのだから、言われてみればその通りだと妙に納得してしまったが、台湾といえば、東日本大震災の時も世界最大の援助をしてくれた国でもある。
そんなことを思い出しながら、日本はこんな台湾の人々に、随分と不義理をしているのだなと考えざるを得なかった。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第三章  ニューギニアの日本兵 pp.139 -142


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