歴史 2018/10/12

高砂族だけではない台湾の「親日」




そんな高砂義勇隊員らの多くは、前述の通り、自らを日本人だと考えていた。ブーゲンビル島で戦った高砂兵らは、戦後になって日本人捕虜から、「日本は戦争に負けたんだよ」と言われた時、嬉々としながら、「知っていますよ。私も日本人ですから、日本に帰れるんです」と答えている。


高砂族に限らず、昔から台湾に住んでいる人々の間には、今でも強い親日感情を持つ人が多いが、それを最初に感じたのは、私がまだオーストラリアの首都キャンベラの大学で勉強していた頃であった。


その日、私はいつも利用していたスーパーマーケットで、数日分の食べものを買い込み、ちょっと休憩しようと思って近くのベンチに腰かけていた。
するとしばらくして、入り口の方から荷物を抱えたアジア人の老夫婦がやってきて、私の隣に腰をかけたのだが、この2人は「とても美しい日本語」で話を始めたのである。


キャンベラというところは、今でこそ少しはマシになっているが、首都であるにもかかわらず、当時はほとんど遊ぶところもなかった。
そこに5年ほど住んでいたと言うと、多くのオーストラリア人が、「お前、あんなところで、毎日いったい何をして過ごしていたんだ?」と笑ってからかうくらいの場所である。
人口も少ないし、日本人の数だって、たかが知れていた。
そんなキャンベラでも見かけたことのないこの老夫婦は、きっと日本人のお金持ちの旅行者に違いないなと思った。


だが、いったいこんな何もないキャンベラを、なぜ訪れたのかが気になった。「もしかして、日本の方ですか?」
思い切ってそう尋ねてみたら、見たところ70代後半のご主人の方が答えてくれた。
「いいえ、私どもは台湾から参ったのでございますよ」
その物腰といい、若輩に対するその言葉遣いといい、高い品格と教養の両方を持ち合わせた様子で、まさに「紳士」「文化人」といった感じであったが、「台湾から来た」という言葉には大いに戸惑った。
どういうことか知りたくなっていろいろと質問したところ、そのご主人はやはり流暢で綺麗な日本語で話をしてくれた。


「私は大東亜戦争の最中、日本軍の軍属として働いておりましてね。ところが、戦争があのようなことになり、残念ながら日本は負けてしまいましたでしょう。それで私も大変にがっかりしたんですが、その後に支那大陸から国民党の連中がやって来て、それからが本当にひどかった。台湾人に対する、もの凄い弾圧は始まるし、もう台湾から外に出てはならないということになった。これからいったいどうやって暮らしていこうかと思うと、情けなくて、悲しくてね」


事実、昭和20年当時の台湾人の識字率は高く、教養も文化レベルも相当高かった。
そんな彼らは、戦後になって中国大陸からやって来た蒋介石率いる国民党軍の「程度の悪さ」に驚愕したのである。


有名な話だが、大陸から来た中国人らはまず、水道の蛇口から水が流れ出ることに驚いた。
日本統治時代に整備された上下水道のインフラは、台湾の市街地でも普通に機能していたが、それが信じられなかったのだ。


そこで彼らは早速金物屋で蛇口を手に入れ、壁にそれを打ち込んだところ、当たり前のことだが水がまったく出なかったので、怒り狂って金物屋に怒鳴り込んだという。
また、店で買いものをした大陸の人間は、領収書に2倍の金額を書けと台湾人店主に要求。
それを断ると殴られたので、店主は仕方なく相手が言う金額を書いて渡した。するとその男は翌日、再び店に戻ってきて品物の「返品」を要求し、自分が書かせた金額をむしり取っていった、という話もある。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第三章  ニューギニアの日本兵 pp.137 -139


関連記事