根底から崩れる「現地人慰安婦1万6000人」説
『週刊朝日』の記事には、日本兵が1万6000人ものパプアニューギニア人女性を強制的に慰安婦にした、という話も載っている。
しかし堀江元参謀はこれについても、以下のように一蹴している。
「1万6千…。あははっ。そんな数字、どこから出てくるか。想像もつかない。兵隊は転進に転進を重ね、栄養失調とマラリアで次々と亡くなってるんですよ。昭和19年8月以降は、軍事司令官ですら一粒の米も食べてません。僕は終戦時30歳だけど、性欲を覚えたことは一度たりともなかった」(同書、194ページ)
「ニューギニアに関しては、そんなことできる戦況じゃなかった。初めから向こうの制空権下にあって、海上輸送が途絶えたんです。『慰安婦』なんてもう、夢にもあり得ない」(同書、193~4ページ)
私自身も、これとまったく同じお話を聞いている。
この、パプアニューギニア人の慰安婦なるもについては、他の兵士らも同様の意見である。
「兵隊とパプア女性との間に性的接触はまったくなかったようだ。これに類する話を聞いたことがない。当時のパプア女性は例外なく熱帯性皮膚病に侵されていた。そのうえ蚊除けのため特異な臭いの植物油を体に塗っていた。これらが、兵士除けにも作用したのだろう」(『戦場パプアニューギニア』奥村正二、中公文庫、177ページ)
今でも、パプアニューギニアのセピック地方などに行けばよく判るが、人は決して多くない。
村から村までの距離は遠く、昔は交通手段など徒歩以外にはあり得なかった。そして多部族社会の習慣として、特に昔は部族間の交流は極めて少なかった。その中で、特に若い女性だけを1万6000人も集めることなどは、物理的に不可能なのだ。
あの灼熱の地で、毎日、滝のようなスコールが降ったらマラリア蚊が一気に草むらから飛び出してくるところだ。
しかも昼間は敵の飛行機が上空を舞い、見つかれば執拗な機銃掃射や爆撃を受ける。
また、毎日砲撃が加えられ、オーストラリア軍のコマンド部隊もあちこちに侵入してきている。
実際、ポートモレスビーで編成された原住民部族は、セピック地方の各地に浸透していた。
そんな環境を、人肉食が頻発するような「極限の飢餓状態」にあるガリガリの兵士が、あの重い銃と飯盒をぶら下げて、消えかけているその命をかけて「若い女」を探しに出るのだ。
もし、「いや、あり得ただろう」と思う人がいたら、ぜひ自分でそれをやってみればよい。
この記事にある「パプアニューギニア人慰安婦1万6000人」がどれだけバカらしいことかは、簡単な計算をすればすぐに判る。
まず人口から見てみよう。
あの戦争の頃のパプアニューギニアの人口は、実際には200万から300万人くらいだったろう。
仮に300万だとして、男女比を1対1とすると、女性の数は単純計算で「150万人」となる。
当時の平均寿命を50歳と仮定すると、「同学年のニューギニア人」は各年齢に「3万人」いることになる。
ここで、百歩どころか「一万歩くらい」譲って、仮に日本軍が悪魔的な組織だったとしよう。
その「悪魔の日本軍」が、パプアニューギニアにおいて「慰安婦」として「強制連行」の対象にした年齢層を15歳から30歳に設定したと仮定してみる。
なぜその年代かというと、そもそも向こうの、特に地方にいる女性などは今日でも、実際の年齢よりかなり老けて見えるからである。
今でこそ都市部の女性は、普通に化粧もしているし、若い女の子であれば、今風のファッションに身を包んでいて、なかなかの美人さんもいるが、昔は決定的に違う。
集落に住んでいる人の場合、風呂にも入ったことのない人たちなので、人によっては、かなり「厳しい」。
疑問に思う人は、一度自分の目で確かめてみればよい。
私自身、あるセピックの村に何日間も泊まった時の経験だが、我々のような外国の珍客が奥地の村にまで入って行ったというので、村の女たちがキャッキャとはしゃいで、あの手この手で我々にアプローチしてきたことがあった。
しかしどう見ても彼女らは30歳くらいに見える。
顔に入れ墨をしているし、ブアイという果実をクチャクチャ噛んでいて、口は吸血鬼みたいに真っ赤、歯も「ヤニ」がついていて黒々しているのだ。
それでも一生懸命に「ウインク」などをしてくるので、思いきって年を聞いたら、「17歳」「16歳」という返事が返ってきて、腰を抜かしたものだった。そんな彼女らは、30代前半の私をつかまえて「同年代」だと思っていたというから、「こりゃ何もかも違うなあ」と思ったものである。
平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第三章 ニューギニアの日本兵 pp.159-162