ゴールドラッシュから始まったパプアニューギニアの「近代」
1926年に始まったパプアニューギニアでの「ゴールド・ラッシュ」では、多くの白人がパプアニューギニアの沿岸地帯から山岳地帯に入り込んで行ったが、それから6年後の1932年以降、現在のモロべ州ブロロ地区が世界最大クラスの「産金地帯」となっていく。
この年に設立されたオーストラリア資本の「ブロロ金浚渫社(BGD)」が、砂金を採取するための巨大な「浚渫装置(ドレッジ)」をブロロの川に投入した結果、この地域から莫大な金が産出されるようになったのだ。
BGD社のこの巨大ドレッジは、「アメリカ製の浚渫部分」と「スウェーデン製タービン」を基幹とし、それに「イギリス製電気設備」と「スイス製電気モーター」を集めてオーストラリアのシドニーで組み立てた、いわゆる「多国籍マシーン」であった。
これを、ユンカースG31という「ドイツ製飛行機」に載せて、ブロロ地区まで空輸したのであるが、この事業の「大成功」を支えたのは、まさにこの航空輸送力であった。
このBGD社のユンカース機は、その後、ブロロからラエまでの航空輸送に大活躍し、その後11年間で、ブロロから約37トンもの「金」と、16トンの「銀」を運び出している。
現在の価値でいうなら、金だけでも1500億円ほどになるだろうか。今風にいうなら、BGD社は一気に「スーパー資源メジャー」となったわけだ。
今もパプアニューギニア国内には数百もの草原飛行場があるが、その多くはこれら金などの資源を運び出すために作られたものであった。
その結果、1940年頃には、ニューギニアの産金量は、世界中の英連邦におけるそれの6割以上を占めていたと言われているが、そのほとんどは、モロべ州ブロロ地区で産出したものである。
噂によると、エリザベス女王の金の王冠も、このブロロ地区で産出した金で作られたものらしい。
もちろん、当時パプアニューギニアを統治していたオーストラリアの植民地行政府にとっても、BGD社などの鉱山会社からのロイヤリティ収入は莫大なものであった。
今でも現地人から、「(オーストラリア北部の町)ケアンズやシドニーのハーバーブリッジは、パプアニューギニア産の金から得た富で作られたのだ」という話を聞かされることがある。
しかし、この空前の利益構造は、日本軍の侵攻作戦によって一気に閉鎖されることとなる。
1941年の段階で、すでに英連邦情報部は日本が戦争を始める可能性が高く、開戦になればニューギニアが最初の攻撃目標の一つになると分析していた。
そのため、BGD社は戦争が始まる前から、綿密な撤収計画をもって航空機による機材搬出作業を行っていたのである。
やがて、日本陸軍の先鋭「南海支隊」のラバウル上陸前夜である1942年(昭和17年)1月21日、日本海軍の航空母艦『瑞鶴』の攻撃隊がラエとブロロを空襲し、BGD社の残余の施設は破壊されてしまい、同年2月5日には、すでにラバウルに展開していた海軍航空隊の陸上攻撃機が再度ブロロを爆撃し、ここに栄華を極めた「資源メジャー」BGD社のオペレーションは閉鎖されてしまったのである。
平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第一章 いま、南太平洋で何が起こっているのか pp. 66-67