歴史 2018/09/25

大東亜戦争の激戦地②




海軍がこうしてマッカーサーにその背後をすべて「無償で」明け渡した結果、ニューギニア本島の陸軍は、昭和20年8月の敗戦まで、まともな補給や救援をほとんど受けることなく、地獄のような環境で飢餓と病魔、そして敵の執拗な追撃戦闘を受け続けることになったのだ。


しかし、ニューギニア本島で戦っていた第一八軍は決してあきらめなかった。そしてニューギニアの原住民らもまた、食糧の生産と供給や、日本の傷病兵の介護、物資の輸送などで日本陸軍を支援し続け、その多くが日本のために命を落とした。


もし、この第一八軍の「死闘」と、現地人の「支援」がなければ、日本はもっと早く敗北していたに違いない(ちなみに、こんなニューギニア戦をかろうじて生き残った日本軍将兵の多くは、こうした現地人の心に何とかして恩返しをしたいと思い、戦後になって「日本パプアニューギニア友好協会」を設立、草の根の活動ではあるが、民間人としてできる限り最大の支援を行った)。


このように、ソロモンからニューギニアにおける戦域では、数えきれぬほどの激しい陸上戦闘や航空戦が行われたが、私自身もこれまでに何名かの歴戦の元兵士や戦闘機、爆撃機の搭乗員とお目にかかる機会を得た。
彼らは一様に、自ら多くを語ることはなかったが、少しずつお話をうかがううちに、その凄まじいご経験の数々に触れることができた。


オーストラリア人らと一緒に制作したドキュメンタリー映画『ビヨンド・ココダ』の撮影では、『修羅の翼』というご著書もある「歴戦の零戦搭乗員」、角田和男さんのご自宅を訪問し、カメラの前でいろいろなお話をうかがった。


中でも鮮烈であったのは、角田さんがラエやラバウル、ブナを基点としてポートモレスビー攻撃に向かう途中、その下で「南海支隊」の兵が飢餓で苦しんでいることを聞き、ご自身の航空弁当やその他の食糧を空中投下されたことである。
角田さんは、実際にスタンレー山脈の禿げ山の上に立ち、ボロボロの姿で日章旗を振る陸軍の兵らを発見し、零戦の操縦席から一生懸命手を振られたそうだが、そのことを語る角田氏は、突然に声を詰まらせ、涙を浮かべられたのであった。


その角田さんに、拙書『ココダ 遙かなる戦いの道』を贈呈したところ、かつての取材のことをご記憶くださっており、大変にご丁寧なお礼状をいただいたが、残念なことに今年(2013年)2月にお亡くなりになったと聞いて、また偉大な歴史の証人が一人逝ってしまわれたと感じ、力が抜けてしまった。


もう一人の「歴戦の搭乗員」に、本田稔さんという元零戦パイロットがおられる。
三菱重工の関係者の中では、知る人ぞ知る「伝説のテスト・パイロット」であるということだが、この本田さんのご自宅には、もう何度も遊びに行かせていただいた。


本田さんは、マレー・シンガポール作戦において、イギリス軍のバッファロー戦闘機を撃墜したのを皮切りに、零戦を駆使してニューギニア・ソロモンで激しい航空戦を戦い抜き、最後には最新鋭戦闘機『紫電改』で本土防空戦を戦われたご経験をお持ちであるが、「B29爆撃機は決して難しい相手ではないですよ。私も撃ち落としたことがありますからね」などということをサラッとおっしゃる「剛腕」搭乗員である。


その本田さんによると、ニューギニアやソロモンで戦っていた零戦の搭乗員らはみな極めて優秀で練度も高く、ガダルカナル上空でも数の上で優勢な連合軍航空隊と互角以上の戦いをしたとのことであるが、本田さん自身も「正面攻撃」に専念し、ご自身では決して何もおっしゃらないが、何十機もの敵機を撃墜破して生き残ることができたのである。


一方、空戦を終えて基地に戻る途中に命を落とした搭乗員も非常に多かった。その原因は、被弾して途中で力尽きたり、嵐や積乱雲の中に入り込むことによって方向を見失って山に激突するか、そのまま行方不明になってしまうのが多かったそうだが、連日の出撃で極度の疲労が溜まった搭乗員らが、帰還途中に「居眠り」をしてしまい、そのまま墜落していくこともよくあったという。


本田さん自身、何度かその光景を見たそうで、最初にフラフラとし始め、「ああ、居眠りをしているな」と思って見ていると、やがてそのままスーッと落ちていくのだという。
無線もないし、そんな時はどうしようもなかったそうだ。


このラバウル航空隊の激闘を、下から眺めていた地元の人の話も、なかなか興味深い。
パプアニューギニアの私の親友の一人は、19世紀にドイツ軍の「苦力」としてラバウルにやって来た華僑の末裔であるが、その父はエリザベス女王から「サー」の称号を授与された名士中の名士である。


父の名前は「ヘンリー・フランシス・チョウ」と言い、元々ラバウルの出身であり、戦後は貧困の中から立ち上がって努力を重ね、ラバウル市長を経てパプアニューギニア最大のビスケット会社を設立、そのほかにも水産事業や精肉加工事業など、多くの分野に進出し、一代で大きな財を成した。


今日では、パプアニューギニアにおけるシンガポール国名誉総領事や、政府のシンクタンクである「国立研究所」の所長も務めておられ、地元では「サー・ヘンリー」の愛称で親しまれ、尊敬されている。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第三章 ニューギニアの日本兵  pp.124 -126


関連記事