歴史 2018/08/03

「二人の首相」を誕生させた2011年夏の政変




第二章 謀略渦巻く「豪中戦争」


「二人の首相」を誕生させた2011年夏の政変

バブル経済に沸くパプアニューギニアで、「前代未聞の政変」が起きたのは、2011年8月のことであった。


この年の4月頃、「建国の父」と呼ばれているマイケル・ソマレ首相が心臓に大きな疾患を抱え、シンガポールの病院に入院した。
それから数ヵ月もの間、ソマレ首相は病院から出ることができず、一時はもう政権に復帰できないのではないかという憶測も流れ、また身内からもそれを臭わせるような発言が飛び出したりした。


一方、首相が空席状態のままで政権運営をしていたソマレ内閣では、水面下で様々な権力闘争のための政治工作が行われていた。
そして8月2日、ソマレ首相の不在を突く形で、かつてオーストラリア植民地政府の警察官であった白人を父とする、現地人のハーフである、ピーター・オニール財務相が突然、過半数の議員の支持を得てソマレ氏を首相の座から追放、自ら「新首相」となってその権力を奪取したのである。
病気とはいえ、何ヵ月も公務を休むようでは、ソマレ氏はもはや国家のリーダーとして機能していない、という理由であった。




これに対し、オーストラリアを始めとする諸外国首脳らも、ただちにオニール氏を正統なパプアニューギニア国の首相として認めるに至り、オ-ストラリア寄りだと見られている現地新聞『ポスト・コーリア紙』も、さかんにオニール首相を「素晴らしいリーダーだ」などと褒めちぎった。


やがて、オーストラリアのジュリア・ギラード首相はオニール氏をキャンベラに迎え、欧米諸国への追随が得意な日本政府も、ただちに氏を正式な首相として認定したのである。


そもそも、2002年の総選挙で首相に返り咲き、2007年の選挙でも改めて首相として信任されたソマレ氏は、かつては独立の象徴でもあり、「建国の父」と言われている人物だ。
しかし、年を重ねたせいもあるのか、権力を握り続けるうちにだんだんと身内びいきが激しくなり、ついに彼の親族は「国家利権」を一手に握るような存在となっていた。


彼らは地元の人々から「セピックマフィア」などと揶揄されるまでになり、ソマレ首相とその一族に対する反発は強まっていった。
もちろん、議員の買収工作のため、オニール首相側で何百億円単位の「裏金」が動いたことは問題ない事実であるようだが、しかし今回の議会クーデターで多くの議員が、心情的にもいとも簡単にソマレ氏のもとを離れたのは、ある意味で当然だったとも言える。


しかし、これに対して、ソマレ氏は激しく反発、病の身を押して急きょ本国に戻り、自分はまだ首相であると主張した。
さすがはかつての独立の闘士である。
帰国後、ソマレ首相は自ら国会に乗り込んで自身の正統性をを声高に叫ぶなど、75歳の重篤な心臓病患者とは思えないほどの激しい抗議行動を見せた。
ここに至って、パプアニューギニアでは歴史上、初めて「二人の首相」が出現することになったのである。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第二章 謀略渦巻く「豪中戦争」  pp.88 -90



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