取り越し苦労
学生時代の私が信じていた「アカデミズム」というものは、うさん臭い政治とは違い、いっさいの妄信的なタブーを疑い、むしろ信頼できるデーターや一次資料を小脇に携え、そんなタブーにこそ斬り込んでいくべき手段であるはずだった。
そして私はその論文で、あの戦争そのものが正しいとか間違っているという「評価」をしたつもりはなく、ただ、皆があえて見ようとしないあの戦争の重要な側面を事実に基づいて「指摘」しただけであった。
しかし、世界でも一流とされる彼ら学者がやったのは、そんな指摘をしただけの一学生を「狂信的」とした、「レッテル貼り」だけであったのだ。
彼らは「日本の戦争」の歴史的意味合いについては、ついに私のような一劣等生に対してでさえ、得意の「アカデミック」な土俵で対抗することはできなかったわけだが、まさにこの部分に、あの戦争を語る上でいつも出現する根源的な「問題」が隠されている。
つまり、戦後の国際的枠組の中では、「日本イコール悪」が絶対的に正しく、有色人種たちはほとんど日本人を憎んでいる(または、憎んでいなければならない)という図式が、今日でも旧連合国における基本的な了解事項であり、「常識」であるということである。
だから、私がパプアニューギニア人ガイドと話していた時に抱いた「恐れ」なるものも、結局のところ、「どうせ最後は『お前たち日本人は残虐だったし、悪かったのだから、謝罪すべきだ』と言われるに違いない」という「いつもの『お約束』的な結末」を意識したものであったのだ。
しかし、私が抱いていたのはまったくの杞憂であった。
彼らはむしろ、かつての日本人を賞賛し、今でもその帰りを待っている、と言うのだ。
「なぜ、負けると判っていた日本兵を助けたのですか?」
不思議に思ってそう問うと、ガイドの男は、
「我らの祖父らは、目の前で苦しんでいるあなた方の国の人たちをとても放っておけなかったのだ」
と答えた。
しかし、いくら哀れだからといって、命を賭けてまで見知らぬ外国人を救おうとするものだろうか。
客である我々へのリップサービスなのではないか。そう思ったので、
「でも、もし日本を助けたら、必ず後で連合軍にやられるのは判っていたでしょう?」
と畳みかけると、相手はこう言った。
「戦争が始まるまで、我々はずっと白人のマスターたちに奴隷のように扱われていた。しかし日本の兵隊は、白人とは違った。日本軍は、同じ有色人種として一緒に白人を追い出そう、そして独立しよう、そのために我々はここまで来たのだ、と言ってくれた。
彼らは我々と同じものを食べ、同じ小屋に寝泊まりしてくれて、大変に子供たちのことをかわいがってくれた。真に人間扱いをしてくれたのは、ジャパンが初めてだったのだ。
私たちはそのことが嬉しかった、だから、そんなジャパンの兵隊が死にかけているのを、我々は放っておくことはできなかった」
その話を聞いて、私は胸が締め付けられるような感覚に陥った。
瀕死の日本兵を助けたというような類似の話は、他の地域でその後何度も聞くこととなったし、凄惨な事実ではあるが、そんな人間としての情を我々の祖父たちにかけてくれたせいで、ほかにも何百人もの心優しき現地人が、戦後、ほとんど裁判も何もなしで連合軍に処刑されることとなった話も各地で聞いた。
欧米人は、「未開の原住民」によるそのような行為を、許しがたい「裏切り」として捉えたのだ。
それにもかかわらず、結局、パプアニューギニアの古戦場を歩いていて、明白な「敵愾心」や「反日」の感情にはまったく遭遇しなかったばかりか、彼らは、日本人だというだけで我々の周りに集まり、時には踊り狂わんばかりに喜んでくれたのである。
平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
はじめに pp. 10-12