今でも目撃される戦没将兵らの「幽霊」?
東部ニューギニアでは、16万人もの将兵が命を落としたとされているが、今日までに収容されたご遺骨は、わずかに数万柱に過ぎない。
私自身、いくつかのご遺骨を見たことがあるが、一度だけ、手に取った頭蓋骨を鼻に近付けて臭いを嗅いだことがある。
そこで驚いたのが、そんなご遺骨でも「いまだに、生臭い」ということであった。
60年以上も経ったのに、遺骨はまだその周りに肉体が付着していたのが判るほど、生臭いのだ。
もし、この灼熱の海岸線の上にある頭蓋骨にまだこれだけの臭いが残るのだとしたら、そこに人間の怨念なるものが残っていたって決して不思議ではないと思った。
実際、今日でも各地で日本兵の幽霊を見た、という話は多い。
以下、いくつか現地で聞き、また私自身が体験したエピソードを紹介しよう。
モロべ州のラエから船で海岸沿いを45分ほど下ったところに「サラモア」という村がある。
ここはかつて植民地を支配していたオーストラリア白人らの別荘があるなど、美しい町と港があったところである。
地形的には、峻険な山岳地帯を背にしているが、そこをかき分けるようにして切り開かれたのが、現地で「ブラック・キャット(黒猫)街道」と呼ばれている小道だ。
これは世界最大規模の金鉱山が可動していたワウ地区へと続く峻険で狭い山道であり、1920年代から始まった「ゴールドラッシュ」の時代、ワウの金鉱脈を目指した白人の山師らは、4日ほどかけてここを通っていた。
第二次世界大戦中には、日本陸軍第五一師団歩兵第一〇二連隊を基幹とする岡部支隊(長・岡部通少将)が、やはりワウ攻略を目指してこの「黒猫街道」で戦ったが、支隊はあと一歩というところで作戦に失敗、800名以上の兵員を喪失し、残余の兵は飢餓と病に苦しみながら再び後退している。
かつてマイケル・ソマレ元首相の秘書官の一人を務めたという私の友人は、ブーゲンビル内戦を戦ったパプアニューギニア国防軍の元大尉であったが、わずか十数年前、この「黒猫街道」における長距離偵察の訓練中に、日本軍らしい一団に遭遇したという。
その日の夜中、2時間交代で周囲に歩哨を立てた大尉は、部下の隊員らと共にジャングルの中で眠りについたのだが、午前2時頃になって急にキャンプ周辺がザワザワと騒がしくなったという。
地面に伏せていた大尉は、近くの副官を起こし、銃をとって見張りをしたところ、宿営地のすぐそばを、何十人もの「武装したような黒い人影」が、ブツブツ何か話しながらゾロゾロと通過していったのだという。
しかし、周囲には歩哨を立てているし、彼らからの報告は何もない。
だいいち、この付近に住んでいる住民もいなければ、演習を行っている別の部隊もいない。
しかもブツブツ言う言葉は現地の言葉ではなかったという。
これは、そこで寝ていた部隊の全員が見聞きしたそうだが、少し離れた4ヵ所で見張りに立っていた歩哨は誰ひとり、そんな人影や話し声などを聞かなかったという。
元大尉はその話をしながら、「あれを思い出すと、いまだに鳥肌が立つ」と言って、真面目な顔で舌を「チッチッチ」と鳴らすのであった。
南海支隊が戦った「ココダ街道」でも、その種の話は多い。
私の最も信頼する部下の一人のM君は、南海支隊が徹底抗戦をしたある村の出身であるが、彼の親戚などは多くの亡霊を目撃している。
ある日の夕方、畑で夕食用のイモを穫った彼の母親が村に向かって歩いていたところ、突然、草むらの陰から3人の男が現れたという。
その3人は、どうみても肌の浅黒いアジア人で、しかも日本兵の格好をし、ボロボロの服を着て、銃のようなものを担いでいる者もいた。
彼女は、「これは、話に聞いていたジャパンのゴーストに違いない!」と思ったというが、それでも下を向いて恐る恐るすれ違ったところ、その刹那に体が寒くなったらしい。
わずかに数歩進んで後ろを振り返ったところ、3人の日本兵はすでに20メートル以上も離れたところに立って、こちらをじっと見ていたというのだ。
もちろん彼女は、そこで「ギャー!」と叫んで、イモもすべて放り出して村まで逃げてきたのである。
そのほかにも、M君の村では、新たにニッパ小屋を新築した家族がそこに住み始めたところ、最初の晩から、夜中に誰かが家の周りをヒタヒタと歩き回る音がして、眠れなかったという。
犬もワンワン吠えるし、いったい誰だと思って外に出ても誰もいない。
しかし、家に入るとまたしばらくして歩き始める。
怒鳴ったりすると止まるが、やがてまた歩く音が聞こえる。
数日して恐る恐る戸口の隙間から外を覗いたら、歩いていたのは真っ黒い影であったが、それは日本兵の格好をしていたという。
怖くなって、近くの村の霊媒師を呼んで見てもらったところ、新築した家の下に日本兵が埋まっているのだということになった。
それで早速、柱の下を掘り起こしたところ、そこから日本の鉄兜を被った格好でうずくまる白骨が出ていたというのだ。
私はこの場所に実際に行って、その現場を見てみたが、不思議と怖いとは感じず、むしろ「日本に帰りたかっただろうなあ」と思い、とても哀れに感じたものだった。
出るのは何も日本兵だけではない。
私は実際に、オーストラリア兵らしいものに遭遇している。
これもやはり「ココダ街道」での話だが、それは、私が山岳地帯のその街道を実際に歩いていた時に起こった。
2010年、私は、オーストラリア陸軍出身で、後にいくつもの映画賞をもらうことになった2時間のドキュメンタリー番組『ビヨンド・ココダ』を一緒に制作した仲間であるスティッグと、あのココダ街道を歩くことにした。
普通なら7日から10日かかるところを、仕事の関係もあるので、3泊で踏破しようという無茶な計画を立案した我々は、パプアニューギニア人のR君を連れ、よく墜落事故を起こすので有名な現地の飛行機会社のプロペラ機で、ポートモレスビーからココダ村に入った。
そして、そこから徒歩で標高3000メートル級のオーエンスタンレー山脈を越え、100キロ先のポートモレスビーを目指したのである。
パプアニューギニア人の美人女性パイロットの操縦でココダの飛行場に到着したのは、午前11時半ごろである。
それからすぐに、蒸し暑い中をオーエンスタンレー山脈に向かって歩き始めた。
さすがに南国、平地はやたらと蒸し暑くて全身から汗が噴き出し、数日で踏破するためにできるだけ軽くしたとはいえ、20キロ以上のバックパックが徐々に肩に食い込んでいく。
平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第三章 ニューギニアの日本兵 pp.142-145