歴史 2018/07/06

「建国の父」マイケル・ソマレ首相





原始時代から突然、欧米諸国の植民地にされたものの、特段の発展さえ実現することができなかったこのパプアニューギニアを、長年の政治運動を経て「宗主国」であるオーストラリアから「独立」に導いたのは、初代首相となった「建国の父」、マイケル・ソマレ氏だ。
1975年のことである。


今では、現地通貨のお札にも印刷されている人物で、子供の頃は日本陸軍宇都宮連隊の将校が作った学校で初めて近代教育を受けて感化され、青年期は日本各地を旅行した。


1963年、ソマレ氏はオーストラリア政府指導による教育省のプログラムに参加し、東セピック州ウェワクにおけるニュース番組を担当したが、彼はそこでパプアニューギニア人公務員とオーストラリア人公務員との間の著しい賃金格差に不満を抱いた。


また、世界中の旧植民地国家が次々と独立していく中で、なかなか独立を認めようとしないオーストラリアに業を煮やし、同じ目標を共有する若き仲間たちと熱心な政治運動を重ね、ついに国としてオーストラリアからの独立に導いたという、非常に立派な人である。


ソマレ氏は、大の親日家である一方、大のオーストラリア保守派嫌いでも有名で、そのせいもあってか、当初は日本を意識した「ルックノース政策」を押し進めた。
しかし、現実的に見れば、確かにソマレ氏やその取り巻きである「独立の元老」らの大きな努力があったものの、パプアニューギニアの独立そのものは、当時の世界的な潮流を見極めたオーストラリア政府が最終的に「許可」したもの、という側面が非常に大きい。


事実、新たに独立国となったとはいえ、パプアニューギニアにはかつて原住民だけによる組織的で近代的な権力集中型政府が樹立されたことは一度もなく、したがってソマレ氏らリーダー層は、この国において欧米的な民主主義による近代政府を作り、運営することとなった歴史上最初の人々であった。


つまり、前例として学ぶべき要素が何もないので、そこに多くの混乱や遅滞が生じるのは火を見るより明らかであったし、「旧宗主国」であるオーストラリア政府が、この生まれたての国家を大きく「支援」することになるのもまた、時間の問題であった。


新生パプアニューギニア独立国の領土内では、まともなインフラもなければ、9割以上の国民が文盲であり、充分な貨幣経済すら存在しなかった。
今でも地方に行けば、物々交換が当たり前のように行われているくらいの国である。


かつて、パプアニューギニアの各村にいて、それぞれの地域を統治していたのは、酋長(ビッグマンやチーフ)と呼ばれる人たちであったが、彼らは自分の下にある村人たちに対して親が子を見つめるような「思いやり」の心を持っており、それが彼らの支配に「権威」を与えていた。
しかし、欧米人たちはそんな伝統的な「人治主義」は、欧米式の「法治主義」よりもはるかに劣るものであり、「著しく前近代的であり、改革されねばならない」と考えた。


そして、そんな「石器時代なみ」と見なした文化圏に対し、欧米で何百年もの試行錯誤を経て作られた「多数決による民主主義」をすぐに根付かせようとしたのであるが、この制度の「押し付け」こそが、今日に至るまでパプアニューギニアの不安定な政治体制の最大の原因となっている。


もちろん、独立を認め、その一人歩きを直接支援しようとしたオーストラリアは、この国を一生懸命に「教育」しようとしたのだが、いくら純粋で良心的な動機をもってしても、その目標が常に「欧米型の政治制度」に従うことを基本とする以上、それが結局は「新たな形の植民地経営」に過ぎないと見なされていくことは避けられず、結果的には今日に至るまで、地元民の間に大きな不満を残すこととなった。まさに悪循環である。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第一章 いま、南太平洋で何が起こっているのか  pp.71 -73




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