歴史 2017/12/21

素人大統領


アルカイーダ

米政府(カーター大統領)は、アフガン・ゲリラに最新の武器を与え、軍事訓練もして、対ソ連ゲリラ戦を戦わせた。アフガン・ゲリラは「タリバン・アルカイーダ」と呼ばれるテロリストになってゆく。

歴史のいたずらか、米国は2001年9月、このアルカイーダにニューヨークの超高層ビルを爆破された。

米国は、アフガニスタンで今も熾烈な死闘を繰り広げている(「アルカイーダ」は、アラビア語で「基地」という意味)。


「実戦の素人」

米国内では、地の果てのアフガニスタンと占領したソ連なぞどうでもよいが、人質を取ったテヘランは許せないと正義の怒りが沸騰した。

カーター大統領も必死になる。イランと交渉しても全く進展がない。1980年4月24日、カーター大統領は人質奪回作戦を極秘に実行した。

大失敗、それも惨事である。目的地テヘランから数百キロ離れたイランの砂漠で真夜中の砂嵐に巻き込まれ、大型攻撃ヘリコプターが次々と空中衝突し、選りすぐられた奪回部隊の将兵が8名死亡した。

カーター大統領は「特別テレビ演説」で国民に謝罪した。

米国民は「勇敢に戦い敗れた」ならば評価するが、「戦わず、どじった」には我慢できない。カーターは「実戦の素人」と見られ、彼への信頼は急速に落ちていった。

ジミー・カーター


イラクの大躍進

米国民の自信は落ち続け、もはや打つ手はないのではないかと思われた。この暗いムードが漂っていたアメリカに、また中東から衝撃的なニュースが舞い込んできた。

1980年9月22日、イラクのサダム・フセインがソ連製ミグ戦闘機の編隊で隣国イランを攻撃し戦争を始めた。

フセインは、革命で弱くなったイランを打ち負かし、領土拡大ができると読んだのだ。事実、イラン革命政権は国王に仕えた軍隊の大粛清を行い、軍上層部のほぼ全員を処刑した。戦闘を指揮できる将校が不足し、イランは後退をする。

イランはシリアとリベリアから援助を受け、さらに中国と北朝鮮からも大量の武器を提供され、反撃に出る。

イラクはアラブ諸国及びヨーロッパ諸国から軍資金の援助を受け、武器のほとんどをソ連から貰った。

米国は嫌悪していたイランに報復するため、サダム・フセインのイラクを支援した。


惨劇に次ぐ惨劇

戦死者は万の単位で増えてゆく。1984年までの戦闘(4年間)でイラン兵の戦死者は30万人、イラク兵の戦死者は25万人。あと4年間戦闘が続く。戦傷者の数は、数え切れない。捕虜も数万人に達した。

圧勝すると思っていたフセインはいらだちを募らせ、最前線で毒ガス爆弾を使用し、イラン将兵を5000人強、殺した。

イランは前線を突破しイラクへ攻撃をかけたいのだが、国境沿いに地雷の地獄が埋まっている。地雷を探知するために戦車を使いたいが、戦車の数も極端に少なくなっており、人海作戦に出た。

「人海」とは、イランの少年たちのことである。

数万人の少年たちは20人のグループに分けられ、お互いに縄で繫がれたまま、地雷の地獄を歩かせられた。

縄で縛り繫がれていたのは、恐怖で気絶する者や逃げ出す者を出さないためであった。


西鋭夫著『日米魂力戦』

第2章「アメリカの怨霊・ベトナム」−32

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