米国産・日本国憲法
外交音痴の元凶
第9条で日本は武器を持ちません、自衛のためでも戦いません、と宣言しているから、日本は平和を維持していけるのだと信じている。
これは平和ボケでなく、厳しい「力」の国際政治に関して、病的に無知なのだ。日本は無防備でも、日本の背後にはアメリカがドスを抜いており、またいつでも撃てるようにピストルを構えているから、悪いたくらみを持っている国が日本に手を出せないだけだ。日本国民はそれを知らない。知っている人も、その重要さを認識しようとはしない。
アメリカ国民は十分認識している。アメリカは世界中で同じように同盟国を守っているので、日本だけが例外だと思っていない。
結局、誰が書いたのか?
次に、日本を国際政治音痴にし、さらに「国防・自衛アレルギー」にした憲法第9条が、どのようにして憲法の中に入ってきたかを見てみよう。
天皇を神聖化した明治憲法を破り捨て、「新しい憲法を書け!」と命令したのはマッカーサーだ。
これは誰もが知っている歴史の事実。それでは、実際に「誰が書いたのか」については、「マッカーサーとその側近が書いた」「いや、最終的には日本人が書いた」と正反対のウワサが流れている。
「日本国憲法」の公布
今現在、日本を国際社会の中でうろたえさせている「日本の自衛権放棄」を、誰が新憲法の中に書き入れたかを論議する前に、日本憲法は誰によって、どういった過程を経て書かれたかを見てみなければならない。
政治改革についての助言
マッカーサーは、「私は東久邇内閣に日本国憲法改正の計画案をつくるように命じた。ポツダム宣言が要求している政府、社会ができるような民主化の視点に立って行うようにと命じた」と言っている。
1945年10月4日、東久邇内閣の無任所大臣だった近衛文麿(細川護熙元首相の外祖父にあたる)は、マッカーサーとアチソン政治顧問(国務省の高官)に会い、政治改革についての助言を受け取った。
近衛は、マッカーサーが「憲法は改正すべきである。改正には自由化をふんだんに取り入れるべきである」と言った、と確信した。
だが次の日、10月5日、東久邇内閣は無残にも崩壊した。マッカーサーの10月4日付「権利宣言」令という政治爆弾第一弾のせいであった。それは日本帝国政府の権力を取り上げ、日本国民に与えるというものだった。
3日後の10月8日、近衛はアチソンと秘密会談をした。アチソンは、アメリカがこれだけは欠かせないと考えている諸点を強調した。それらは(1)超憲法的なものの除去、(2)政府に対する軍の影響の抹殺、(3)国民の権利宣言に対する憲法上の保証、などであった。
西鋭夫著『富国弱民ニッポン』
第2章 富国日本の現状−18