戦後復興の中の日本
嶋中事件
日本では、右翼の暗殺が続く。「嶋中事件」と呼ばれる中央公論社の若い社長夫妻を狙った事件もその1つである。
1961(昭和36)年2月1日、午後9時過ぎ、17歳の小森一孝が東京・市谷にある嶋中鵬二社長(37歳)の邸宅に上がり込んだ。家政婦の丸山かね(50歳)が社長はいないと言ったが、小森はそのまま奥へ入り、雅子夫人(35歳)を見つけ、刃物で腕や胸を滅多刺しにして重傷を負わせた。止めに入った家政婦は、胸を刺され殺された。
小森は逃亡したが、翌早朝、浅草・山谷交番所に自首した。
深沢七郎著「風流夢譚」
中央公論社が右翼攻撃の的にされたのは、前年の『中央公論』12月号に、天皇家を冒瀆するかのような深沢七郎の「風流夢譚」が掲載されていたからである。深沢は『櫓山節考』(1956年)で第1回「中央公論新人賞」を受けていた。
映画にもなり、大きな話題を呼んだ作品だ。事件から1年後、東京地裁の飯守判事は小森に懲役15年の判決を下したが、「皇室を侮辱した深沢七郎とその小説を掲載した中央公論が悪い」と殺人を正当化するような意見を述べた。
世界のミフネ
1961年は坂本九の「上を向いて歩こう」が爆発的にヒットした年だ。この曲は「スキヤキ」のタイトルで米国でも大ヒット。石原裕次郎が「格好いい男」。黒沢明の「用心棒」では三船敏郎と仲代達矢が名対決を演じ、私たちに「男の美学」とは三船の真似をすることだと思わせた。
この映画は世界中で大人気を博し、ワシントン大学の映画祭では「羅生門」(1950年作)と「七人の侍」(1954年作)と共に必ず上演された。ミフネ」が画面に現れると、学生たち(男女)は歓声を上げて拍手をしていた。とても嬉しかった。三船が戦後初の日本人男性セックス・シンボルであった。
「東洋の魔女」
1961年に、日本のお家芸「柔道」と「バレーボール」が、1964年に開催される東京オリンピックの種目に加えられることが決定した。女子バレーボールは、世界中から「東洋の魔女」と賞賛され、また恐れられた全戦全勝の日紡貝塚チーム=日本女子バレー代表チームが東京で金メダルを勝ち取ることになる。
柔道の重量級では、日本がオランダのへーシンク選手に敗れ、金メダルを国外へ持ってゆかれる。私は東京オリンピックを観戦していないので母から聞いた話だが、柔道大好きの父は悔しくて泣いたそうだ。
安保闘争後の虚脱感
安保闘争の後、虚脱感が日本全土を襲った。あれは、取り返しのつかない失敗を見詰めるような空しい憤りだったのか。苦しい「政治・外交」を早く忘れ、金の儲かる楽しい「経済・商い」に集中しようと日本中が努力していた。
だが、大学には大乱闘と暗殺の余波が残っており、学生たちは在日米軍と安保に対して嫌悪感を持っていた。
私自身、在日米軍は必要ないと信じたままアメリカに来た。その私が、寮の友達たちの軍行進を見たのだ。
西鋭夫著『日米魂力戦』
第5章 戦争と平成日本 -5