歴史 2018/06/05

アメリカに政治的主導権を奪われたオーストラリア




この中国に対して反応したのはアメリカであった。
習近平がフィジーを電撃訪問した約半年後の2010年9月29日、ヒラリー・クリントン国務長官がフィジーのイノケ外務大臣とニューヨーク国連本部で会談、米政府として、1995年に閉鎖したフィジーの合衆国国際開発庁(USAID)の事務所を15年ぶりにオープンし、当初予算として2750万ドルを投入する決定をしたことを正式に伝えている。


また、FBIのチームが地元警察の訓練を担当するようになった。
これでアメリカはなんとか、フィジーにおける中国の動きを監視できる最低限の体制を整えることに成功した。
さらにその翌日、クリントン長官はパプアニューギニアなどの南太平洋諸国を歴訪、同じように中国との関係を急速に深化させているこれらの地域に対し、本格的な外交交渉を活発化させている。


このアメリカの迅速な動きは、この間、フィジー問題について何ら有効な対策を講じることのできなかったオーストラリアとは対照的であったが、これまでフィジーを含めた南太平洋を「統治」してきたオーストラリアとしては、「スマート制裁」という強力な拳を振り上げてしまった以上、習近平の電撃訪問を始めとした中国の動きが急激に活発化したからと言って、ただちにフィジーに対していい顔をすることはできなかったという事情がある。


こうして、振り上げた拳を下ろすタイミングが見つからないオーストラリアをよそに、対中国を意識したアメリカの太平洋地域に対するコミットメントは、以後急速にその勢いを増していく。


2011年秋にはオバマ大統領がオーストラリアを訪問し、同国の北部準州ダーウィンに2500名規模の米海兵隊を常駐させることでオーストラリア政府と合意。
これによってオーストラリア陸軍もまた、第二次世界大戦中から常に軽装備であり続けた歩兵部隊を一部改変することを決定し、現在、揚陸強襲艦の整備を含めた重装備の「海兵隊化」を進めている。


そして、そんなアメリカの動きに押されるようにして、ついにオーストラリア政府も、2012年7月30日、ニュージーランドと共同で、凍結していたフィジー軍事政権との外交関係を3年ぶりに修復させることでフィジー側と合意した。


2009年に互いに大使クラスの外交官を国外追放にして以降、フィジーとの公式な対話窓口を失っていたオーストラリアにとっては、ようやく交渉のテーブルに戻れた感があるが、留意すべきなのは、今回の外交関係修復は決してフィジー側がオーストラリア政府の民主化要求を呑んだ結果ではなく、むしろオーストラリアがやむにやまれず折れた、という点である。


つまり以前と大きく変わったのは、中国をバックにし、その他の国々からの支持をも独自で取り付けたフィジーにとっては、もはや何をするにあたっても、金輪際オーストラリアの意向など気にする必要がなくなった、ということである。

この点から見ても、かつてのオーストラリア自身が振り上げた拳の「代償」はあまりに大きかったと言わざるを得ない。
アメリカは、そんな過去のしがらみに囚われて身動きの取れなかったオーストラリアの姿を見て、もはや南太平洋の管理を任せていられないと判断したのだろう。


そこで、クリントン長官自らがオーストラリアの代わりに迅速に動いたのであるが、それは結果として、中東における長年の戦争にかまけた結果、ブッシュ政権下において喪失しかけていた太平洋地域におけるアメリカのプレゼンスを何とか取り戻すことに繋がったし、オーストラリアにしてみても、そのおかげで自国の権益を最低限守り得たと胸を撫で下ろしたというのが本音であろう。


しかしこのことは同時に、南太平洋における政治的主導権が今や完全にアメリカに移行し、オーストラリア自身は第二次大戦時のようにアメリカのサポート役に回らざるを得なくなってしまったことを意味している。


オーストラリアのこの対フィジー政策の失敗は、南太平洋諸国がもはや旧宗主国・オーストラリアの言うことを聞かなくなりつつあるという意味において、オーストラリアの域内における指導的な地位や権威、影響力の著しい低下を大きく印象づけるものであった。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第一章 いま、南太平洋で何が起こっているのか  pp.50 -53




関連記事