歴史 2017/10/23

国連軍 vs. 中朝連合軍


朝鮮戦争

当時、日本国民は1億総懺悔の毎日で、マッカーサー元帥の命令に忠実に従い、食うや食わずの厳しい生活を強いられており、フランスとベトナムが「内戦」を戦っていることに関心を持つほどの余裕なぞなく、また、戦争に日本国民はアレルギー状態であった。

だが、日本が植民地にしていた朝鮮半島で戦争が勃発した。隣の不幸が日本復興の糸口となった。

1950年6月25日の夜明け前、10万人の北朝鮮軍が38度線を突破して、不意をつかれて動転した韓国軍を追い散らし、3日後首都ソウルを占領した。



一進一退の攻防

東京に君臨していたマッカーサー元帥が国連軍(ほとんど米軍)の総指揮者に任命され、反撃を開始する。

同年10月19日、マッカーサーの国連軍は北朝鮮の首都平壌を落とし、逃げる北朝鮮軍を追いかけて北上を続け、中国の国境にまで近付いた。

その時、中国軍が怒濤のように朝鮮半島になだれ込み、国連軍を壊滅状態に追いやった。

中国軍・北朝鮮軍は、逃げる国連軍を追い南下を続け、1951年1月初旬再び首都ソウルを占領した。


原爆オプション

負けるとは考えてもいないマッカーサーは、3月14日、ソウルを奪回した。半島を南北に行ったり来たりしていることに我慢ならなかったマッカーサーは、勝つためには「中国国境沿いに原子爆弾を使用するべきであろう」と発言した。

驚いたトルーマン大統領は、マッカーサーにロを開くなと命令する。トルーマンは、対毛沢東・中国戦争は第3次世界大戦になると恐れており、これ以上戦線を拡大することだけは絶対に避けるつもりであった。


西鋭夫著『日米魂力戦』

第2章「アメリカの怨霊・ベトナム」−9


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