レーガン旋風
燃ゆるアラブ
悲惨な戦争は終わる気配を見せず、イラクはアラブ海を行き来しているイランの石油タンカーを沈めだした。イランもイラクのタンカーを沈める。
アラブ海でタンカー擊沈戦が戦争の終わる1988年まで続行する。
勝敗のつかない両国に戦闘疲れが出たのか、国連の安全保障理事会の介入を受け入れ、1988年8月20日終戦になった。
8年間で戦死したイラン兵士及び一般市民は100万人、イラクも100万人の戦死者を出した。国境線は戦争前のままである(イランは、現在核兵器を保有している。2003年3月、米軍は第2次湾岸・イラク戦争を仕掛け、フセインの独裁政権を3週間で潰した)。
ロナルド・レーガン
アメリカでは、イランでの人質奪回作戦で失態を演じたカーターが、1980年11月4日の大統領選挙で共和党のロナルド・レーガン(69歳)に敗れた。大差で、完敗。副大統領はジョージ•ブッシュ。現大統領の父親である。
1981年1月20日、新大統領レーガンが連邦最高裁首席判事が持つ聖書の上に左手を置き、右手を顔の近くで開き、憲法と国民の命と財産を守るため、己の全身全霊を捧げます、と誓った。
その数分後、イランで444日間勾留されていた人質は全員解放された。
イランを鉄の手で支配していたイスラム教徒の支配者たちは、レーガンを強い男、人質奪回のためなら全面戦争さえも辞さない男と読んだのだ。そのとおりである。
イランはいまだに米国民から敵視されており、テロ集団の元締めであるとみられている。ホメイニ師は、1989年6月に死去した。テヘランでの暴動のような葬式で、ホメイニ師の遺体が棺から地面に転がり落ちる様子は、アメリカのマスコミで繰り返し報道された。
外交音痴
カーターは選挙に敗けた後、世界中で平和・慈善活動を精力的に行い、それが評価され、2002年12月にノーベル平和賞を授与された。だが、ここアメリカでは、彼の受賞に対して非難が沸騰した。
1994年6月17日、カーターがクリントン大統領の特使として、「核ミサイルを持っている」とCIAが判断した北朝鮮を訪問し、金日成(1912年生)と会談した直後、「北朝鮮は核兵器を保有していないし、平和に貢献する国である」と発言して、日本と米国が北朝鮮に石油燃料と食糧を送ることを約束した。
さらに、北朝鮮のエネルギー増産の手段として、原子力発電所を2基建設することに同意し、金日成に「核兵器は作らない」と確約させた。
この歴史的な会談の2週間後(7月8日)、金日成が死去した。ノーベル平和賞の発表と時を同じくして、北朝鮮が1994年の「確約」を破り核兵器を保有しているとニュースが流れた。クリントン大統領も「何を考えていたのか」と厳しい非難にさらされている。
大統領の威厳
レーガンは、私が勤務しているスタンフォード大学フーバー研究所の名誉研究員である。大統領選挙中、フーバー研究所に来て教授たちと討論をしていた。
研究所の前に黒色の大きな車が3、4台止まり、黒ずくめの屈強な男たち(シークレット・サービス)が研究所の周りにいることで、レーガンが来ていることが分かった。
1度だけ会ったことがある。5、6人の教授たちが「パナマ運河の返還」についてレーガンと勉強会をしていた時である。私は、マスコミで作り上げられていた好ましくない偏見を鵜呑みにしていた。
日焼けした背の高い、とてもハンサムな男が、ニコニコしながら小さな会議室に入ってきた。明るいキラキラとした「オーラ」が入ってきた。オーラという言葉を使いたくないが、そうとしか言いようがない。
全員起立。レーガンは1人ずつ握手をしてまわる。私も握手をしながら「私は」と自分の名前を言おうとしたら、「ドクター・ニシ、お会いできて光栄です」と彼が先手を打つ。
誰かが事前に手配をしていたのだ。知らないことは素直に、それも速やかに認め、教授たちの意見を聞く彼の姿に感銘を受けた。
西鋭夫著『日米魂力戦』
第2章「アメリカの怨霊・ベトナム」−33