ケネディ暗殺
ダラスの悲劇
3週間後(11月22日、金曜日、12時30分)ケネディ大統領は、テキサスのダラス市でライフル銃で頭を撃ち抜かれ暗殺された。
わずか34ヵ月の大統領だったが、輝かしい男であったことは疑う余地もない。
午後2時38分、副大統領リンドン・B・ジョンソンが大統領になる。テキサス州出身のジョンソンは、「偉大なる社会」を作るため数々の優れた法案を通した上院議員と高く評価されていたが、「ベトナム」が命取りとなる。
トンキン湾事件
(12)1964年8月2日、北ベトナムのトンキン湾で、米駆逐艦マドックが北ベトナム海軍の偵察艦に砲撃されたと、ロバート・マクナマラ国防長官(1961〜68年)が米議会と国民に報告した。
でっち上げの、噓の報告である。駆逐艦マドックが秘密裡に北ベトナムを攻撃していたのである。
フォード自動車会社の鉄腕社長であったマクナマラは、ケネディ大統領に乞われて45歳の若さで国防長官になり、ケネディ暗殺後、ジョンソンに仕えベトナム戦争の遂行に全身全霊を傾けていった。
マクナマラは、1995年の『回顧録』の中で、「私たちは間違っていた。大きな間違いをした」と告白した。米国民に陳謝をしていたのか。話題にはなったが、国民の反応は冷たかった。
ベトナムへの本格介入
米国と東南アジアの歴史を、15年間にわたる血の悲劇にしてゆくトンキン湾事件は、私が船でホノルル港に到着した2週間後であった。
ジョンソン大統領はトンキン湾事件を口実にし、「国家を護るため、東南アジアが将棋倒しのように共産主義国の手に落ちないようにするため」ベトナムへ兵と戦闘物資を送り始めた。
アメリカがベトナムに深く入り込み、方向を見失い身動きができなくなってゆくのは、この時からである。
ジョンソンはベトナム戦争の虜となり、理性を失い、兵士増強だけの無謀な策に溺れていった。
西鋭夫著『日米魂力戦』
第2章「アメリカの怨霊・ベトナム」−16