オイル・ショック
日本のジレンマ
アメリカは、石油消費量の35%をアラブから輸入していた。日本の石油輸入は70%以上アラブからで、日本政府はアメリカ側についてイスラエルを応援するか、アラブ(OPEC)側について中立を保つ姿勢を見せるかで苦悩した。
日本はイスラエルを批判して、OPEC側に敵視されないように必死であった。それほど、石油が必要な国なのである。それでも、大津波のごとく世界経済を襲ったオイル・ショックをまともに受けた。
石油価格の高騰
安い石油が大量に入ってきていたアメリカでは、国民は「燃料効率」という言葉なぞ知らなかったし、関心もなかった。
OPECの石油封鎖で一夜にして燃費の悪いデトロイト製の大きな車(全米で、ほぼ全車)は、断末魔の苦しみで七転八倒する。ガソリン代は、1ガロン(4リッター)30セントから4倍の1ドル20セントに高騰した。
ニクソン大統領の命令で、日曜日のガソリン販売が禁止になった。家族がドライブを楽しむ日曜日のため、金曜土曜から全米のガソリン・スタンドに長蛇の列ができた。私も並んだ。並んでいる途中、「ガソリンがなくなりました」と通告された時もあった。長い間待っても1回につき、10ガロンしか売ってくれない。
自動車好きなアメリカが大パニックになったのは当然である。石油封鎖でウォール街も悪夢の痙攣を起こし、株価は2年間下落し続け、値を45%も下げた。
スモール・イズ・ビューティフル
「省エネ」という言葉が生まれた。「Small is beautiful」(小さいものはすばらしい)が流行語になった。この省エネ・ムードが国策になってきていたアメリカに、小型の日本車(トヨタ)が上陸し、大成功をする幸運な糸口を掴んだ。
自然が美しいまま残っていたアラスカで大きな油田が発見され、その油田を開発するかどうかで数年間討論が繰り返されていたが、「国家非常事態」と「自然環境保護」では議論にもならず、アラスカ横断石油パイプ線を作る議案が米議会を通過した。
OPECの石油封鎖から僅か1ヵ月後のことである。アラスカ・パイプ線は1977年に完成した。
西鋭夫著『日米魂力戦』
第2章「アメリカの怨霊・ベトナム」−25