歴史 2018/07/23

「昭和の妖怪」岸信介


岸内閣総辞職

7月15日、岸内閣は総辞職した。辞職後も、岸は「昭和の妖怪」と呼ばれるほどの大物政治家として、1987年に90歳で亡くなるまで永田町に君臨していた。日本史上、最も永く首相の座に着いていた佐藤栄作は、岸の実弟である。

7月19日、自民党・池田勇人内閣が成立した。池田首相の「経済重視・所得倍増」政策で、戦後日本は世界中から奇跡的と賞賛される高度成長に入ってゆく。

池田首相がパリでドゴール大統領に表敬訪問をした時、ドゴールは池田首相を「トランジスターの販売人みたいだ」と人物評価をした。なんと言われようが、貧しい日本国民には金持ちになってやるという意地があった。


A級戦犯

「米国べったりの岸」と書いたのには、訳がある。1896年生まれの岸は、東大法学部を卒業後、農商務省に入省した。日本帝国の植民地・満州へ、満州鉄道の高級幹部として派遣された。帰国後は、1941(昭和16)年10月18日から丸三年間続いた東條英機内閣の商工大臣になり、日米開戦・真珠湾攻撃の遂行に大きく参与した。

国民に戦争続行を強いた東條内閣で国務大臣も務める。終戦直後、マッカーサーのMP(軍警察)に逮捕され、東京・巣鴨拘置所に入牢、東京極東裁判にかけられ、東條と同じくA級戦犯となった。

1948(昭和23)年12月23日(今上天皇15歳の誕生日、当時皇太子)午前零時1分、東條ら7名が巣鴨拘置所の中庭に設置された絞首台で死刑にされた。その翌日、クリスマス・イブ、A級戦犯が18名残っていたが、マッカーサーは17名に特赦を与え釈放する。

岸信介(左)と佐藤栄作(右)


敬虔なキリスト教徒であるマッカーサーは「やりすぎた」との良心の呵責に耐えきれず、後味の悪い罪悪感から己の魂を解放するために、これらのA級戦犯に特赦を与えたのだろう。


強行採決

釈放された岸は、命を助けて貰った謝意を示すためか、それとも米政府と密約でもあったのか、自分の額にA級戦犯の烙印を捺した米国に傾倒していった。日本が真っ二つに割れた安全保障条約の締結をめぐり、岸首相は米国の戦略構想だけが最も重要であり、日本国民の気持ちは共産党と社会党による「洗脳の産物」としか見ていないように動いた。

アジアの要・日本に米軍が駐留することは、武力大国アメリカが描く理想像である。岸首相は、国民があれほど大反対をした日米安保条約を、国会に警察隊まで導入して通過させたのである。

当時、ソ連は日本との平和条約について話し合いをしており、北方領土を返還する意図を示していたが、この日米安保条約の締結からそれまでの柔軟な態度を変え、米軍が日本から撤退せねば北方四島は返さないと断言した。この硬直状態は、ソ連が崩壊し米ソ冷戦が終わり、大きな貧しいソ連がさらに貧しいロシアになっても変わらず、今現在でも続いている。



西鋭夫著『日米魂力戦』

第5章 戦争と平成日本 -3


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