昭和天皇が学ばれた國史
From:岡崎 匡史
研究室より
東宮御学問所は、現在の港区高輪のプリンスホテル周辺に建てられた。
東宮御学問所で、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が、13歳から19歳までの7年間、5人のご学友たちと一緒に特別教育「帝王学」がほどこされた。
東宮御学問所の構想は、第10代学習院院長を務めていた乃木希典(1849〜1912)によるもの。乃木将軍の御学問所の構想は、ロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎に受け継がれた。
乃木希典と白鳥庫吉
生前の乃木将軍と東洋学の権威である白鳥庫吉のあいだには交流がある。
実証主義を重んずる白鳥庫吉は、「神代史が我が皇室の由來を説明する爲めに作られた政治的の意義を含んだものである」と考えていた。
そこで庫吉は、「神話と歴史事実は別のものである」と生徒に話したいと乃木に相談。堅物と思われていた乃木将軍は、「まことにもっともだ」「神話は神話で歴史事実は歴史事実だ」と述べて了承していた。
二人の交流はささやかなものであったが、乃木希典が明治天皇を慕い殉死した後、次の学習院院長に白鳥庫吉が推薦された。
しかし、白鳥庫吉は院長就任を辞退。
なぜなら、自己の任務は学問の研究であり、学術研究で国家に奉仕すべきと強い信念があったからだ。
東宮御学問所御用掛
学習院院長の就任を断った白鳥庫吉だが、1914(大正3)年にさらなる白羽の矢が立つ。東宮御学問所御用掛として教務主任への就任だ。
白鳥庫吉は、御用掛になることに躊躇。だが、当時の事情で断ることは「臣下の分を全くする所以でないこと」だった。彼は、謹んで拝命を受けた。このとき庫吉、47歳。
神話をめぐり乃木将軍との逸話が残っているように、白鳥庫吉は「皇太子様にはうそのことは申し上げられない」「神話は神話だ」「ほんとうの歴史事実はこういうことだ」ということを申し上げて、「私は俯仰天地に恥じない」と決心していた。
教務主任として7年にわたり国史・東洋史・西洋史の御進講を担当する。
白鳥庫吉は、「毎朝4時起きで家を出て、一日として御役目を欠かしたことがなかった」と家族は証言している。
教科書『國史』
いったい、白鳥庫吉は皇太子裕仁親王にどのような講義をしていたのか。
庫吉は、皇太子裕仁親王のために教科書を作成する。
教科書は『國史』。
現在、庫吉が作成した『國史』は誰でも読むことができる。ところが、庫吉と昭和天皇の関係を窺い知れる文献は数少ない。
なぜなら、白鳥庫吉が「自ら宮中の話」をしなかったからだ。
白鳥庫吉が同席していたある会合で、昭和天皇の話題があがった。そのとき、元宮内次官の関屋貞三郎(せきや ていざぶろう・1875〜1950)が、「今上陛下のお声が立派」だと語り、白鳥庫吉に同意を求めたことがあった。会合の参加者も、白鳥庫吉の返答に注目があつまる。
これに対して白鳥庫吉は「ただうなずかれただけで、何の発言もされなかった」と門人の一人は回顧している。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・津田左右吉『津田左右吉全集 第24巻』(岩波書店、1965年)
・津田左右吉『津田左右吉全集 別巻第1』(岩波書店、1966年)
・白鳥庫吉『昭和天皇の教科書 国史』(勉誠出版、2015年)
・古野清人「白鳥先生の追憶」『白鳥庫吉全集 月報1』(岩波書店、1969年)
・吉川幸次郎編『東洋学の創始者たち』(講談社、1976年)