富とお金 2018/07/04

アンドリュー・カーネギーがお金持ちになった方法と財産の使い道




アンドリュー・カーネギーという名前を耳にするとき、多くの人がそうであるように、私も昔は「実業家」、「慈善家」という言葉を思い浮かべていた。そして、彼が裕福になった方法や、いつ、どうやって財産を提供し始めたのかということにつねに興味があった。

これは興味深く、また感動的で教訓的なストーリーである。そして、今まで私が執筆してきたことや、これからも書き続けるであろう事柄に深く関わっている。

彼の人生はどん底から始まった。1835年にスコットランドで生まれ、ヨーロッパでの不況から逃れるために一家は1848年にアメリカに移住した。一家はペンシルベニア州のアラゲイニーという、現在はピッツバーグにある街に住み始めたが、アメリカへ渡るためにすべてを投げうったため、到着したときには破産も同然の状況であった。

そのため、アンドリューはアメリカに住み始めてすぐに時給120円で綿織物工場にて働くことになり、学校へ行くことを諦めなければならなかった。

昔から志の高かった彼は、夜になると簿記の勉強をした。これはより収入の良い、キャリアを築く仕事を得るために必要なスキルをアンドリューに与えてくれた。そして、彼は地元のオフィスで事務員として働くことになったのだ。そこでも彼は良い仕事をするだけでは満足しなかった。夜の勉強を続け、職場でも新たな職務を得るために可能な限り、あらゆる仕事の手伝いを申し出たのである。

雇用主も彼の努力や増え続ける知識を見過ごしはしなかった。アンドリューはすぐに会社での地位を上げ、それと共に彼の給料も増えていった。

しかし、職場の成長スピードが彼にとっては満足いくものではなかったため、アンドリューはより給料がよく、ステイタスの高いピッツバーグの電報局での仕事へ移ることにした。その当時15歳であったが、2年後には職場でもっとも上の地位につき、最高額の給料をもらうフルタイムの電信係になったのである。

彼が20歳のときに父親が死んで、プライベートにおいても、金銭的により大きな責任を負うことになる。彼は自分とそのキャリアだけでなく、母親と12歳の弟の面倒も見なければいけなくなったのだ。

彼はさらに一生懸命働き、その努力がクライアント、そして外部の人たちの目に留まるよう努力をした。間もなくして、彼はピッツバーグでの管理職か、ペンシルバニア鉄道の地区最高責任者の元で電信係兼秘書として働くかという、2つのキャリアの選択肢を提示された。

権力や地位を持ち、非常に成功しているビジネスマンの近くで働くことの優位性を分かっていたアンドリューは、わずかに給料が低いが、格段に大きな可能性をもつ最高責任者の元で働くことを選択した。

24歳になる頃には、最高責任者から指導を受けていたこともあり、彼はピッツバーグ地区の最高責任者へと昇進することになった。

その頃には、同世代で彼ほど稼いでいた人はほとんどいなかったし、彼は優雅なライフスタイルを送るのに十分なお金を稼いでいた。しかし、彼は収入と富の違いに気付いたのだ。そして、ビジネス上の友人から5万円を借り、彼が築いた評判を担保に自分が知っている、つまり、自分の専門である鉄道業で人生をかけた投資計画を始めたのである。

なんというときに投資をしたのだろう!その頃、鉄道は世界を変え、アンドリューの投資はその経済の波の最高潮に乗っていた。そして、鉄道は鉄鋼に大きく依存していたため、アンドリューは鉄鋼産業の勉強もし、鉄鋼製造にも投資を始めた。当時鉄道産業が景気づいてたため、鉄鋼業も躍進していたのである。

彼が33歳になった頃には年収が500万円になり(現在では1億円くらいの価値に相当する)、学問や旅行をするために引退することを夢見たりもしていた。

しかし、彼はそのとき プルマン・カンパニーの筆頭株主であり、 ユニオン・パシフィック鉄道のディレクターでもあったため、引退する夢は叶わなかった。それから数年にもわたる鉄鋼需要の成長を考えると、彼のとった行動は大胆であるとも言える。彼は鉄道の仕事を辞め、カーネギー鉄鋼会社を立ち上げたのだ。

アンドリュー・カーネギーは競合相手よりも値段を安くし、より優れた商品を提供することの重要性を理解していた。彼はすぐさま仕事に取り掛かり、会社がほかのどの競合相手よりもより良い鉄鋼をより早く、そしてより安く作れるようになるまで自分の製造方法をデザインし改良していった。

その結果、ビジネスが拡大するとともに、彼の個人財産も同じように急激に増えていったのだ。それから数年のあいだ、カーネギー鉄鋼会社は世界でも突出した鉄鋼製造業者へと成長し、アンドリュー自身も世界でもっとも裕福な人物となった。

66歳でアンドリュー・カーネギーは、ビジネスでは世界で最高のポジションの頂点に立った。もし彼がそのまま引退し、豪邸に引っ込んでそれ以上なにもしなかったとしても、彼は自身の業績で歴史に名前を刻むことになったことだろう。しかし、彼は引退とは無縁であった。彼は66歳になっても夜明けとともに目を覚まして働き続け、決してそれをやめることはなかったのである。

彼は自分にある選択肢についてしばらく考え、以前と同じように志高く、立派な目標を立てた。そして、自分の会社を売却し、慈善活動に残りの人生を費やしていくことを宣言して世界中を驚かせたのだ。

そして、実際に行動に移した。彼はカーネギー鉄鋼会社を、US スチール設立の足がかりとしてJPモルガンに売却したのである(それから18年間にわたって、彼は自分のすべてのお金を寄付していった)。

カーネギーは、「富を人類の利益のために分配することは神聖なる使命であり、私の死後も人類に恩恵をもたらし続けるとしたら、それは私にとって最高の幸福である」と記している。

アンドリュー・カーネギーはただ幸運だったのだろうか?確かに彼はちょうどいいときにちょうどいい場所にいたのだろう。でも、彼の成功は決して偶然ではない。振り返って見れば、彼は必然的に成功する何かを実行し、不要なことは避けていたのだ。

彼はなによりもまず、早起きであった。そして、ライオンのような自信とプライドがあり、( 後に彼の弟子のナポレオン・ヒルが言ったように)自分の頭に浮かんだことはなんでも達成できると信じていた。

彼は一つの仕事をうまくやるだけでは決して満足しなかった。自分のビジネスの周りを見渡し、なにが欠けているのか、なにが必要なのかを見つけ、さらに前に進むために必要なスキルを割り出していった。また、より良い職に就くために役立ちそうな仕事を無償で引き受けた。

彼は生涯にわたり学び続ける人であった。毎晩、そして毎週末、自分の仕事とそれに関連する分野について勉強した。彼はもし自分が学ぶことをやめ、知識を得るスピードを落とせば、彼の残りの人生、そして彼の夢すべても同時に失速していくことが分かっていたのだ。

彼は改良し、より早く製造し、より安く売ることの価値を理解していた。ビジネスを作りあげるこれら3つの素晴らしい秘訣が、彼の最初で最高のビジネスベンチャーであるカーネギー鉄鋼会社の文化や基本計画に組み込まれていたのである。

最後に、彼は自分のお金を手放すことは、稼ぐことと同じくらいに楽しいことだと理解していた。いや、理解するに至ったのだ。

アンドリュー・カーネギーにも多くの不愉快な習慣があったり、非難されるべきことをしてきたに違いない。しかし、彼の人生で成し遂げたことを100年後に見てみれば、あなたも私と同じように彼のことを敬愛すべき、多くのことを教えてくれる人だと思うだろう。

マーク・M・フォード

                                                Presented by インベストメントカレッジ

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