歴史 2018/06/22

欧米列強が「触手」を伸ばしたパプアニューギニア




パプアニューギニアは、今日においてもオーストラリアの様々な影響を極めて強く受けている国である。
例えば、言葉にしてもそうだ。


オーストラリア英語というのは、ご存知の方も多いはずだが、かなり「訛って」いる。
それがパプアニューギニア人の言葉の隅々に出てくる。
かく言う私自身も、英語は完全な「オーストラリア仕込み」だ。
だから、時々アメリカ人あたりからは笑われる。


しかし、オーストラリア英語はいったん覚えてしまえば、非常に愛着を持てる言葉であるし、オーストラリア人らがある種の誇りを持って使っているのも頷ける。
私自身も、アメリカ英語の番組よりも、オーストラリア訛りの番組の方が見ていてよく判る、という具合でさえあるが、実はこのことはある意味で、その後のパプアニューギニア理解を大いに助けるものでもあった。


例えば、パプアニューギニアの人々は、よく物が壊れたりすると、「バカラップ、バカラップ」と言う。
これは、現地のピジン英語で、「壊れてしまった」という意味だが、オーストラリアで勉強していた者として、最初からそれが何を意味しているのか判った。


すなわち、英語でいうところの「バガード・アップ」(buggered up =壊れてしまった)という意味であるが、それがメラネシア人の訛りに混じって「バカラップ」となるのだ。


かつての植民地時代、苦労して外から持ち込んだ機械や車が壊れる度に、オーストラリア系白人たちが、あの強い訛りで「It’s buggered up!」とやっていたのを、パプアニューギニアの現地人は周りでしょっちゅう聞いていて、それを一生懸命に真似しようとしたのだろう。


もしかしたら昔は、この「buggered up」も、白人と接触して暮らした経験のある「一部先進的な現地人」が広めた、ある種の「流行語」だったのかもしれない。
それが、彼らの中で日常の言葉として定着したのだろう。
日本でいうなら、「ビフテキ(=ビーフステーキ)」とか、「ラムネ(=レモネード)」などのたぐいだ。


こんなパプアニューギニアを一層理解していただくためにも、以下に彼らの歴史を簡単に紹介したい。


ニューギニアに人類がやってきたのは今から5万年ほど前であり、メキシコと同じく、彼らは人類で初めて農耕を行った人々だったと言われている。
しかし、元来過酷な環境にあるため、特に大きな王朝ができたとか、何らかの政治体制が発展して周辺に影響を与えたといったことはまったくなく、あくまで部族ごとにそれぞれ定着した先祖伝来の地域に住み続けただけであり、たとえば山岳地域(ハイランド地域)の部族が海岸地域に住む部族らと積極的に交流した、というようなことはあまりなかったようだ。


そんなハイランド地域の人々は、ほとんど「塩」を摂取することができなかったため、彼らの体は次第に、塩がなくても健康に生きていける体質へと変質していった。
これは、生態人類学的にも極めてめずらしいことらしいが、海岸から遠くない地域に住んでいたにも関わらず、第二次大戦の頃にやって来た日本軍に教えられ、初めて効率的な塩の作り方を知ったという人々までいたのだから、この国がつい最近までいかに「未開の地」であったかが判る。


この地域にヨーロッパ系の白人がやって来たのは16世紀以降のことであり、以後、オランダや大英帝国は、宣教師や学者、商人らをわずかに送り込んだものの、彼らは過酷な自然環境に阻まれたせいで大した調査を行うこともなく、したがってこの地域には有望な資源さえ何もないだろうと考えられていた。


しかし、19世紀後半になると、現在のパプアニューギニア周辺にドイツ人が姿を現すようになり、それまで「のんびり」していたニューギニアの状況が大きく変化していく。
元来勤勉で合理的なドイツ人らは、東部ニューギニアの北部海岸を中心にすばやく展開し、ラバウルやマダン、ウェワクなどといった地域を一気呵成に開拓した。


これらの地域では次々と組織的に港や町が作られ、ドイツ人の探検家が時おり奥地にその姿を現すようになった。
今でも、ニューギニアの多くの地域に、「ビスマルク海」や「ウィルヘルム山」などのようなドイツ風の名前が残っているのは、この頃のなごりである。


このドイツの急激な勢力拡大活動を見て初めて事態の深刻さに気づいた大英帝国は、あわててドイツ、オランダを交えての三者でそれぞれの「シマ」を明確にするための領土交渉を行った。
1901年、オーストラリア大陸に英国国王を国家元首とする「オーストラリア連邦」が正式に建国されたため、英領ニューギニアがオーストラリアの領土の一部として移管された。


その後、第一次世界大戦でドイツを打ち破ったオーストラリアは、それまでドイツが領有していたニューギニアの一部地域をもすべて吸収、現在のパプアニューギニア領の全体がオーストラリアの委任統治領として確定していくことになる。とはいえ、この頃は白人が奥地に入って行くことはほとんどなく、ニューギニアは相変わらず「この世の果て」であった。


しかし1926年、その後のパプアニューギニアの運命をすべて変えてしまう事態が発生する。
それが、有望な「金鉱脈」の発見である。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第一章 いま、南太平洋で何が起こっているのか  pp.63 -65




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