歴史 2018/11/06

日本兵の「組織的人肉食」と「大量レイプ殺人」事件?③




一方、日本軍は味方の肉にも手を出している。
実際、バサブア守備隊の一指揮官であった宗田中尉という人は、「自分が死んだら、この肉を食ってでも敵と戦え」と部下を鼓舞して戦っているから、それが行われたとしても不思議ではない。


さて、こんな背景があることをご理解いただいた上で、以下に、くだんの『週刊朝日』を引用していく。
これらの証言は、日時も場所も証拠も何もない。
しかし、日本兵がやったということだけで充分に「スクープ」になり得るという、極めて不公平な状況を現している。


戦争中20代後半だったマンピー・ワサさん(男性)は妹とともに、伏し目がちに、こう語った。

「その日の午後、長男は日本兵に命じられてサゴヤシを取りに行きました。翌朝になっても戻らないので、日本兵が兵舎にしていた教会に様子を見に行くと、日本兵はみんな寝ていました。台所ではナベが火に掛けてあったので、フタを開けてみると人肉で、兄が食べられたとすぐにわかりました。肉がこそぎ落とされた兄の骨を集めて持ち帰り、埋葬しました」

2人は兄が煮られていたという教会の広場で、この証言をした。

      (『週刊朝日』1997年10月17日/以下、すべて同じ資料)


普通に歴史を勉強している人なら、日本兵が朝から兵舎で、歩哨すら立てずに、パプアニューギニア人なみに「鍋に火をかけたまま全員ごろ寝」しているなんておかしいなあと思うし、指揮官は何をしていたのか、と思うのが普通だ。


こんなふうに、現地人でも誰でもが台所に自由に出入りできるくらい警戒が緩かったのか?
しかも、そうやって寝ている日本兵の横をこっそりと通過し、火にかけられた鍋の中の肉を見たとたん、どうしてそれがすぐに人肉であり、しかも兄のものだと判ったのだろうか?
頭でも丸ごと入れていたのだろうか?


「日本兵がわたしの母をレイプし、そのあと殴り殺したのです。母は体をバラバラに切断され、皮をはがされ、肉片として軒先に吊るされ、この飯ごうでゆでられました」

バラス・ブカヒンさん(70代半ば・男性)は一点を見つめ、悲痛な面持ちで語った。足元には母親がゆでられたという黒い飯ごうが置かれている。


繰り返すが、ニューギニア戦線で人肉食があったのは間違いのない事実である。
しかし、戦闘地域で日本軍が現地の女性と遭遇することは、それほど頻繁なことではなかった。
また、極度に飢えた兵士たちには、性欲などという「健康的」なものは、まったく生じなかったと言ってもよい。


もしこの証言にあるような事件が、それこそ数万件もあったのだとしたら、当時からオーストラリア軍のコマンドがかなり浸透して工作をしていたセピック地域のことである、住民らの多くは一斉にオーストラリア側に寝返って、各地で日本軍を襲撃したことであろう。


また、人間を殺し、皮を剥がして軒先に吊るすとはどういうことか判っているのか、と言いたい。


熱帯に行けばすぐに判ることだが、皮を剥がして軒先に吊るしていると、すぐにハエがたかり、半日もしないうちに肉は腐敗し始める。にも関わらず、これらの日本兵は、あえて面倒くさい、皮を剥ぐという作業をして、肉片を軒先にぶら下げたらしい。


そもそも、人間を一人煮込むのに、飯盒はいったい何個いるのだろうか?
バラバラにしたとしても、かなり小さく刻まねばなるまい。
大変な作業だ。


今でもパプアニューギニアでは、釣った魚を真っ黒く燻製にする。
冷蔵庫も何もないため、腐敗防止処理をしなければいけないからだ。
しかし、これらの「残虐日本兵ら」には、そんな処理をした形跡もない。


皮を剥いで、軒先にぶら下げたというが、おそらく何十個にも切り分けてぶら下げるのだから、凄惨かつ異様な光景であっただろうし、第一、相当長い時間がかかったことだろう。
大量のハエが集まって肉は真っ黒になったに違いない。
いずれにせよ、面倒くさい。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第三章  ニューギニアの日本兵 pp.156-159


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