歴史 2018/06/29

日本の諜報機関も知っていた「ゴールドの島」




戦争が始まってすぐ、突然ブロロに空襲にやって来た日本軍機であったが、当時の日本軍はこのニューギニアの資源について、特に海軍を中心にしてかなりの情報収集を行っていた。


元オーストラリア国防省の戦史研究官であったピーター・ウィリアムズ博士は、近著『ココダ:その神話と現実』(ケンブリッジ・プレス)の中で、戦前の日本がニューギニア、特にラエやブロロ地域に対し、複数の諜報員を派遣していたことを指摘している。


例えば日本が戦争を始める3年も前の1938年(昭和13年)、オーストラリアの国防省は、首相府に対して、「日本海軍の士官が日本の客船に乗り、一般の乗客としてラバウルを訪問したが、その後、船員の制服に着替えて同地に上陸し、周辺を偵察した」ということを報告している。


また、1939年に英連邦で作成された報告書では、「コバヤシ、イイダ、ヤシという英語の堪能な3名の日本人」が、ラバウル、サラモア、ワウ(ブロロの近く)を訪れたことを確認しており、現地で飛行機をチャーターして上空から写真撮影を行うと同時に、周辺での「草」をサンプルとして採取していたことが報告されている。


「草」のサンプルというのは奇妙に聞こえるかもしれないが、実はこれは、今でいうなら「輸送トラック」に相当する軍馬に供するための「干し草」の現地調達が可能かどうかを調べるための「大変重要な調査項目」なのである。


事実、これら諜報機関要員らによるこの種のサンプル採集活動は、日本軍が中国大陸において大規模な作戦を実行する前に行った偵察活動と同じ手法であったという。


こんな当時の「軍隊の常識」と、過去の日本軍の行動特性を当然ながら知悉していた英連邦情報部は、これら「怪しい日本人」が自国領土内にやって来たと知って、相当に緊張したことであろう。


ちなみに英連邦情報部では、これらの地域を回った3人はおそらく、当時の日本外務省ならびに帝国海軍と深い関係を持っていた『南洋興発株式会社』の社員であったことだろうと見ていたが、この推測は正しいであろう。


『南洋興発株式会社』とは、大正から昭和にかけて存在した「国策会社」であり、南満州鉄道(通称「満鉄」)に対比する形で、「海の満鉄」とさえ形容されていた会社だ。


東南アジアから南太平洋にかけて、精糖、水産、農業、製酒業を中心とする事業で拡大し、その後、鉱業、油脂工業、交通運輸業、貿易業にまで手を広げた、まさに「日本株式会社」であった。


実際に、彼らが当時有していた国際的な視野は極めて広いものであり、それらの経験と知識は、戦後の未曽有の経済発展の牽引役となった「総合商社」へと引き継がれていくことになる。


従業員とその家族ら総勢約5万人の日本人は、第一次世界大戦で日本がドイツから獲得したサイパンやテニアンなど、南洋の日本の信託統治領のみならず、当時欧米列強の植民地下にあったインドネシアやフィリピン、ティモール島などの「僻地」にも住み着き、現地で様々な事業を黙々と遂行していた。


それと同時にそこから上がってくる現地情報は、量・質ともに相当のものであったので、この組織が事実上の「諜報機関」と化していったのは、ある意味で当然の成りゆきであった。


英連邦情報部が尾行した、例の「コバヤシ、イイダ、ヤシという名の英語の堪能な3名の日本人」は、ブロロやワウ、ラエを視察した後、やがて第二次世界大戦の勃発後に帝国陸軍の先鋭「南海支隊」が上陸することになるバサブアやギルワ(現在のオロ州)といった地域をも訪れ、様々な現地調査をしたことが確認されている。


その後、例えばラバウル占領やサラモア攻撃、ポートモレスビー作戦、岡部支隊によるワウ攻略作戦など、まさにこの3人が「歩き回った」地域において日本軍の大型作戦が発動された事実を考えると、これら『南洋興発』社員らの情報がいかに重宝されたであろうかは、疑問の余地がない。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第一章 いま、南太平洋で何が起こっているのか  pp. 67-70


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