歴史 2018/04/04

恐るるもの




それから数日後、もう一つ衝撃的な事実を知らされた。
それは、多くのパプアニューギニア人が、日本軍を助けたという理由だけで、戦後に戻ってきた連合軍によって処刑されてしまったということである。


この話をしてくれたのは、日本軍が連合軍に対して徹底的な抵抗戦を演じた地域に住む州政府のガイドであったが、彼によると、そこで戦っていた日本軍が優勢な敵によってめちゃくちゃにやられ、三々五々退却していった時、村人たちはそのボロボロの日本兵らの後ろ姿を泣きながら見送ったのだ、と言うのである。


それだけではない。
その戦いでは、傷つき動けなくなった一人の日本の将校を、見るに見かねた近くの村の酋長が密林の奥にかくまったのである。


ジャングルという無慈悲な自然と敵の猛攻の前で、無力に倒れるしかない「文明国」から来た日本人将校を、教育すら受けたこともなく、目の前で行われている戦争の意味すら理解していなかった未開の地の一老人が、ただひたすら「人間として」、心底哀れに思って助けることにしたのだ。


しかし、このことはやがて連合軍にバレてしまうことになり、その日本人将校と共に酋長も捕まってしまった。
そして、二人は同時に処刑されてしまったという。


この話を聞いて再び頭を殴られるような感覚に陥った私は、しかしその次に、ある種の「恐れ」をも感じた。
もしかしたらこの国の人々は、そんな目に遭う原因を作った日本人を恨んでいるのではないか、ということだった。


確かにこの地域に物理的な戦争を「持ち込んだ」のは日本であった。
私の世代が受けてきた教育によれば、アジア諸国はすべて、日本の「侵略」や「残虐行為」を忘れていないし、日本は未来永劫、そのことをアジア諸国に対して、そして世界に対し謝り続けねばならない、ということであった。


実は、私がこの時に抱いた「恐れ」には、それなりの根拠があった。
パプアニューギニアは、戦後もずっとオーストラリアの植民地であり、教育もまた、すべてがオーストラリア主導であったことである。


私はかつて、オーストラリアの大学と大学院に留学していたことがあったは、そこでも戦前の日本はイコール「悪」であるとする歴史観が一般的であり、それに対して疑義を呈することは、アカデミズムの世界でもほとんど許されない行為であった。


もちろん、私はほかの多くの学生と違い、その状況に何度も立ち向かった。
大学院時代、『大東亜共栄圏は正しかったか否か』という題で論文を書かされた時には、ほかの学生たちがこぞって、「あんなものは嘘だ、欺瞞だ、残虐な日本の行為を正当化する政治トリックだ」などと書いている間、私は一人で多くの一次資料を使用して、


「もちろん、政治的には約束が果たされなかったことも多いし、その概念すら日本の国益を最優先するためのものであったが、しかしそれは、どの国家においても同じことである。一方で、当時の指導層から末端の将兵に至るまでの多くの日本人が、本気で『欧米植民地主義からの有色人種の開放』を信じ、そのために戦い、命を落としたのは事実であるし、あの戦争があったからこそ、戦後、アジア・アフリカの諸外国は独立を果たしたことは歴史が証明している。つまり、日本は戦争には負けたが、その理想においては勝利したともいえるのではないか」


というようなことを書いたのであった。
しかしその採点をした講師は、「確かに論点は非常に明快でよく整理できている。ただ、あの戦争を単純化し、正当化しているのではないか?」というようなコメントをし、その成績も、最高得点圏である「HD(ハイ・ディスティンクション)」に一点足りない79点に留まったのであった。


そのクラスを担当していた別の教官は、朝鮮研究では世界的にも名のしれたニュージーランド人研究者で、「朝鮮半島の女性史(ジェンダー史)」が専門であったが、彼はある日、私を部屋に呼び、


「いくらいろいろな資料を集めても、君は日本人だ。つまり被害者ではなく、加害者の側にいるのだから、そんな主張をするべきではない」


などと言い、最後には、


「つまり君は、狂言的な超国家主義者なんだ」


と言い放ったのであった。
この瞬間、私は「アカデミズム」なる名前に隠された悪質な欺瞞とその限界を感じ、大学院でそれ以上勉強を続けようとする熱意を一気に失ったと言っても過言ではない。




平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
はじめに  pp. 8-10



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