歴史 2018/09/24

大東亜戦争の激戦地




第三章 ニューギニアの日本兵


パプアニューギニアは、その人口や面積、資源量などの面からも、南太平洋島嶼国の中でもリーダー的存在であり、この国が極めて親日的な国であるということは、第一章でも述べた通りである。


それがなぜなのかを理解するには、日本とパプアニューギニアの関係史について知らねばならないが、不幸なことに、その最初の関わりは「戦争」であった。
ここは、いわゆる「大東亜戦争」において「最も過酷な戦域」と言われたニューギニア戦線の主戦場である。


実際に、東部ニューギニアだけでも16万の将兵が戦死しているが、その環境がどのくらい過酷であったかといえば、当時の日本兵らが、「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と恐れたほどだったと言えば、だいたいお判りいただけるかと思う。


これほどの激戦地であったその「歴史」を知らない限り、日本人としてパプアニューギニアを本当に理解することにはならない。


このニューギニア戦線においては、特に陸軍の損害が非常に大きかったが、実は陸軍は元々、南太平洋なんかで戦争をする気は、まったくなかった。


この地域での作戦が必要だと考えたのは海軍であり、ニューギニア・ソロモン戦線の戦いは、海軍が最初に始めたものの、途中で気がつけば陸軍の戦場に「すり替わっていた」というのが実情である。


海軍の作戦と編成を担当するのは「軍令部第一部第一課」であるが、戦前、そこの課長であったのは富岡定俊(後、海軍少将)である。


富岡は海軍大学校を主席で卒業し、終戦直後、ミズーリ号における降伏調印式にも出席した人物だが、開戦前の段階で、「もし対米戦争を行えば、連合軍は必ずオーストラリア本土から反抗してくる、だからグアム、ラバウルと進出し、そこからポートモレスビーを攻略して、いつかは豪本土に上陸したい」と考えていたのである。


一方、もっぱら大陸における対ソ戦しか想定していなかった陸軍では、あの広大な太平洋の島嶼地域で戦うなど、まともに考えたことさえなかった。


しかし、いったん開戦になってしまった以上、陸軍は行けないとも言えないから、急きょ、上陸専門の先鋭「南海支隊」(高知歩兵第一四四連隊基幹)を編成し、海軍に付いてグアム、ラバウルと進んで行くのだが、言い出しっぺである当の海軍は、昭和17年8月にソロモン諸島ガダルカナルにおける戦いが始まって以降、とてもではないがニューギニアとソロモンの二正面作戦ができなくなってしまった。


つまり、陸軍を南の戦場に引きずり込んだ海軍は、その後もニューギニアの陸軍部隊に対する支援をほとんど行わなくなってしまったのだ。
そして気がつけば、ニューギニア本島はいつの間にか、完全に陸軍の主戦場と化していたのである。
これが「死んでも帰れぬニューギニア」の原点である。


昭和17年夏頃の段階では、開戦後の日本が破竹の勢いで攻略した地域のほとんどで、戦闘は一段落していた。
したがって、アッツ島の戦いなど一部を除けば、連合軍がサイパンを攻撃した昭和19年6月までの約2年間、ほとんどの戦域は比較的平穏であったのである。
しかし、南太平洋(ソロモン・ニューギニア)に送られた部隊だけは違った。ここだけは、ずっと戦い続けていたのだ。


南方での戦いなど想定外であった陸軍は、熱帯仕様の装備のいっさいを欠いたまま、あのポートモレスビー作戦からガダルカナル作戦を戦うはめになっていた。
そんな陸軍は、この戦域において「第一八軍(安達二十三中将指揮)」を新たに編成し、情勢に流されるまま、その後もニューギニア各地で死闘を演じることとなった。


一方、海軍では、航空隊がラバウル、ラエ、ブーゲンビルを基点とし、連日、優勢な連合軍航空隊に頑強に抵抗、この陸と空での抵抗は、連合軍をかなり苦しめ、その侵攻を一手に食い止め続けていた。にもかかわらず、その間、海軍主力の「連合艦隊」が救援のためにこの戦場に現れることは、ついになかったのである。


その海軍司令部は、昭和19年2月、実に奇怪な決定を下す。
それまで米豪軍航空部隊と互角に戦っていたラバウルの航空隊を、突然すべてトラック島に移してしまったのだ。


おかげであれだけの「素晴らしい仕事」をしていたラバウル航空隊は、突然に敵前から「消滅」し、直後にマッカーサーの指揮する連合軍は一気にマヌス島まで抜けていくことになる。
ここから、ニューギニア本島の陸軍は完全に「干上がって」いき、事実上、見捨てられてしまったのである。


防衛大学校の田中宏巳名誉教授の指摘によると、ニューギニア戦の一つの転機となった昭和18年の「フィンシハーフェンの戦い」では、アメリカ軍はラバウル航空隊の攻撃を非常に恐れるあまり、上陸作戦は何がなんでも夜間に実施するとして、オーストラリア軍と深刻な対立さえ演じているのだ。


このくらい敵に恐怖と打撃を与えていたラバウル航空隊の役割を、実はまったく理解していなかった海軍司令部の思考経路は、いまだに「謎」であるが、マッカーサーの司令部でも、ある日突然、本当にラバウル航空隊が目の前から消えてしまったので、何かの罠ではないかと半信半疑であったらしく、数日間はラバウル周辺の偵察飛行を何度も実施している。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第三章 ニューギニアの日本兵  pp.121 -124


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