多くの日本兵を救った精強「台湾高砂族」②
この能力に最も着目したのは、陸軍中野学校出身の将校らであった。
やがて中野学校は、これら卒業生らの進言を受け入れ、日本人将校と下士官の下に、特に優秀な高砂族兵士を配属するという形で「特別遊撃隊」を編成して訓練をほどこし、新たにニューギニア北岸地域やブーゲンビルの戦場に送り込んだのである。
「特別遊撃隊」はまず、現地住民に対する宣撫活動を実施、医療品や食糧、備品を分けて与えて住民から完全なる信頼と支持を勝ち取った。
元来、高砂族の言語はニューギニア北部海岸のメラネシア系人種と同じ「オーストロネシア語族」に属しており、言葉もどこかで通じるものがあったのだろうし、事実その風習にしても、現地民のそれと一部共通していた部分もあった(覚醒作用のある「檳榔の実」を噛む習慣など)。
こんな背景もあり、彼らは現地民と極めて良好な関係を構築することができた。
そうして信頼関係を構築した結果、現地民だけしか知らない「秘密の道」を教えてもらうなどし、その後の作戦に大いに役立てることができたようだ。
特別遊撃隊はやがて連合軍に対して、ゲリラ戦を各地で展開するようになり、時に推定100名以上の敵兵を殺害し、自動小銃や弾薬数千発を鹵獲するということもあった。
自ら高砂義勇隊の一隊を率いて戦い抜いた田中俊男元軍曹の手記『陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦』によると、この部隊は3年以上にわたって数十回米豪軍と交戦し、死闘を繰り返しながらも、一度も敗北したことはなかったという。
特別遊撃隊は、移動や炊事の際には、それらの痕跡を徹底的に消し去り、「中野学校の威信を賭けて」敵より先にその接近を察知して襲撃、毎回のようにこれを撃退している。
もちろん、敵砲兵陣地や飛行場に対する夜襲はお手のものであり、暗闇でも方向を失わずに集結して奇襲を敢行、その後、いったんバラバラに散ってから再び所定の地に集結し、まるで霧のように敵前から姿を消す、という戦闘を繰り返したのであるが、こんなことは、高砂族がいたからこそできた芸当である。
とにかく、この本に出てくる高砂遊撃隊の戦闘記録は、「すごい」の一言に尽きる。
昭和19年秋頃、アイタペの戦いで敗北した日本軍を追い詰めるため、オーストラリア軍は新たに無傷の精鋭「第六師団」を投入、日本陸軍第一八軍最後の本拠地であるウェクワを攻撃すべく、現在の東セピック州の山間部や海岸線に沿って東に進撃、逃げ遅れた遊兵を追い詰め、あるいは途中で踏みとどまろうとしていた小部隊を蹴散らしながら押し出してきた。
それに対して唯一、第四一師団の青津支隊が必死の組織的抵抗を試みていたが、物量に勝り、戦意旺盛なオーストラリア軍によって各戦線が相当の圧迫を受けていた。
それを打開するため、同年12月、中野学校出身の日本人将校・下士官のもと、各部隊から抽出した日本人歩兵と高砂族を中心とする「大高猛虎挺身隊」が編成され、救援のために投入される。
「大高猛虎挺身隊」はその後2ヵ月にわたって、各所においてオーストラリア軍に対する連続奇襲作戦を実施し、すべての戦闘で敵の動きを封じることができた。
食糧は敵のものを奪い、またはジャングルの中で高砂兵が狩猟採集を行って維持し、武器弾薬も敵からの鹵獲品を中心に補給していたので(自動小銃や弾薬、手榴弾等)、後方からまったく補給を受けることなく重武装を維持し、長期間の果敢な作戦行動を可能とした。
そして、この遊撃隊の活躍によって人的損害を多く出したオーストラリア軍は、ついにこの地域を一気に制圧する意図を挫かれ、以後は非常に慎重に動くようになったとのことである。
一方、当時は携帯無線などはなかったので、「大高猛虎挺身隊」の方でも、戦闘終了後すぐに戦闘詳報を司令部に連絡するということはできなかった。
そのため、はるか後方の日本軍の軍司令部では、あれだけ活発で優勢だった敵の動きが急に止まったので、その意図がよく判らず、爾後の判断に苦しんだのだという。
後にその原因が、中野学校と高砂族を中心とする「大高猛虎挺身隊」のゲリラ戦によるものだと知って、軍司令部の方では大変に喜び、遊撃隊に対して「殊勲甲なり」と激賞したのだった。
この「大高猛虎挺身隊」153名は、この地域で約60日に及ぶ激闘を敢行、その兵力を半減させているが、その損害内訳は、以下のようなっている。
戦死 将校1、下士官5、歩兵29、高砂義勇兵0
負傷 将校1、下士官2、歩兵37、高砂義勇兵0
これを見ると、常に攻撃の最前線に立っていたはずの高砂兵の損害がまったくゼロであったことが判る(田中俊男著『陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦』189ページ)。
かつて、戦中に日本の特務機関について様々な工作をしていたという方のご自宅に泊めていただいたことがあった。
その方は戦後ずっと満州に留まり、何万人もの日本人居留民を救うために陰でアメリカ軍やソ連軍と交渉するなどして活躍した人物で、ソ連軍の暴虐を毎日のように目撃していたのだが、氏いわく、「マッカーサーが台湾を攻略しなかったのは、高砂族を恐れたことも大きな原因の一つである」ということであった。
本当にそれが直接的な理由であったかは判らないが、しかしニューギニアのジャングルであれだけ連合軍を苦しめたのが高砂兵であると知っていたら、そのような判断がなされても不思議はないだろう。
そうやって日本のために命を落とした高砂族の人々のご遺骨に関しても、私たち日本人は、その収容に「道義的責任」を感じなければならない。
平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第三章 ニューギニアの日本兵 pp.134 -137