動かしがたい事実
首都ポートモレスビーの空港に最初に降り立った時のことは、あまり覚えていない。
パプアニューギニアといっても、何から何まで未知の国であり、田中教授と一緒に計画した戦跡調査の内容すべてを満足にこなせるかどうか、そして途中で変な事件を起こさないかだけが気になっていたのである。
しかしそれからの2週間、私がパプアニューギニアの各地で遭遇したのは、かつて誰にも知られることなく戦場の露と消えた若き日本人がパプアニューギニア人の心に残した数多くの「良き思い出」であり、そんな現地の人々が今でも持っている、信じられないくらいに深い「親日の情」と「日本への期待」であった。
そこで私は、「人生をすべて変えてしまうほどの感動」を何度も味わい、結果として商社マンになる道をあきらめることになるのだが、この時はそんなことなどまったく想像すらしていなかった。
パプアニューギニアに着いた私は、田中教授と共に、第二次大戦中、「世界最強」と謳われた日本海軍戦闘機隊が駐留していたラバウルやラエ、マダン、ココダなどを巡ったのだが、最初に心を打たれたのは、モロベ州ラエ郊外の密林の中を歩いていた時のことである。
日本陸軍が遺棄し、今も錆びついたまま残された高射砲を視察し終わった時、私たちを案内してくれていた地元民らがボソリと、
「日本の兵隊さんのお墓がある。見てみますか?」
と尋ねてきた。
大雨が降りしきる中、おそらくマラリア蚊だろうが、ブンブン飛び回る虫を手で払い、筋骨たくましい現地案内人の背中を追って深い茂みをしばらく掻き分けると、暗い密林の中に突き刺された二つの古びた鉄製の十字架と、それに添えられた美しい花が目に飛び込んできた。
「戦争中、傷ついた二人の日本兵が、進撃してきたオーストラリア兵から逃げようとして撃たれました。遺体はそのまましばらく放置されていたのですが、オーストラリア軍が去った跡に、日本の兵隊を哀れんだ我々の祖父らがここに埋葬したのです。以来、ずっとここにあります。時おり、村の女たちが花をあげていますよ」
案内者は、哀れむような眼差しを十字架に注ぎながらそう言った。
地元の人々が添えてくれていた美しいピンク色の花が、雨に当たって小さく揺れている。
それが痛いくらいに我が目を射るので、思わずその墓の前に立ち尽くして瞑目した。隣では田中教授が、
「こんな寂しいところで……。本当に哀れだねえ」
と漏らし、沈痛な表情を浮かべておられたが、まったく同感であった。
戦争が終わってすでに60年近くが経っていたが、この間、地元の人々はこの二人の兵士のことをずっと忘れていなかった。
忘れていたのは、私たち戦後の日本人であり、私もまたその一人だった。
それに気付いた時、私は無知だった自分をぶん殴りたいような気持ちに駆られた。
ここで死んだ名もなき二人の日本人兵士は、ただ静かにこの土の下に眠っていたのか。それとも、ただ鬼哭啾々、日本からの遺骨収容班が来るのをこの暗闇の中で待ち続けていたのだろうか。
愛する人や妻子はいたのだろうか。
この南海の果てで傷つき、迫り来る敵兵から必死に逃れようとしながら、その人生の最期にいったい何を思ったのか。
その時の彼らの心には、「絶望」以外に何があったのだろうか。
母の面影を思う暇くらい与えられたのだろうか。
なぜ、今まで誰も来なかったのだ!
なぜ、こんな不条理が許されているのだ!
そんな思いが、強烈な怒りとか悲しみのような感情として湧き上がってきた。そうして見上げた空は、密林の濃い木々に覆われていて、その間から差し込むわずかな白い光が、熱帯の冷たい雨と共にこの暗い密林の土の上にこぼれ落ちてくるだけだった。
その雨が、私の心にも鋭く突き刺さるようであった。
ここに眠る戦没者たちのおかげで、今の日本がある。
それなのに、我々戦後の日本人は、バブルだ、高級車だ、住宅だ、キャリアだ、収入だ、海外旅行だと騒いでいただけだった。
そしてその間、これらの戦没将兵たちは、異国の冷たく暗い土の下でずっと我々を待っていたのだ。
それだけではない。
パプアニューギニアの人々が、今でも彼らの墓を守ってくれているのは、それだけの「尊敬」「信頼」「親近感」を日本の兵隊さんたちに感じていたからである。
そんなことを考えていた私は、しばらくこれらの墓の前から動くことすらできなかった。
これが、私がパプアニューギニアで得た最初の衝撃であった。
平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
はじめに pp. 5-8