歴史 2018/09/11

ついに派遣されたオーストラリアの「特殊部隊」




2012年6月に予定されていた5年ぶりの「総選挙」の直前になると、長年のソマレ政権に疲れたせいで、心情的に新政権に傾いていた国民の多くも、ナマ副首相の暴走と、それを止められない気弱なオニール首相に対して、いいかげん苛立ちをつのらせていた。


オニール首相は、国民に対して多くの「アメ」をぶら下げたが、政治的混乱と首相自身の実行力の弱さによってそれがまったく機能していないことも、首相の人気に翳りを生じさせた。


迫りくる総選挙が無事に行われるのかどうかも怪しい雲行きになり、仮にこのまま選挙が実際に行われることになったとしても、それが引き金となって治安が急激に悪化する可能性は決して低くはなく、いつどこで騒擾事件が起こり、それが国内各所に飛び火するかは、誰にも予想できない状況であった。
つまり、きたる選挙の実施状況を、誰もが固唾を飲んで見つめていたのである。


一方、オーストラリア連邦警察の「対テロ特殊部隊」は、この頃すでに現地に派遣され始めていた。
この部隊は、一個チームが1ヵ月間でコンテナ1個分の弾薬を消費するくらいの凄まじい射撃訓練を行っており、軍のエリート部隊なみの能力を持っている。


部隊は、アフガニスタン戦争でも勇名を轟かせたSASRの訓練を受けており、隊員らの多くも、元陸軍コマンドや偵察隊の出身者である。
だから、表向きは警察といえ、実際の中身は軍隊なのである。


またSASRそのものも、かなり早い段階からパプアニューギニア国内に展開していたようだ。
隊員からは、ポートモレスビーなどの市街地ではジャーナリストや旅行者、会社員らの格好をして自由自在に情報収集を行い、地方では各所における部族紛争や利害関係を調べ、また音もなく浸透してくる中国の動きなどを逐一監視して本国に情報を送る活動をしていたらしい。


そういう意味では、前述のリチャード・ベーカー記者による、「パプアニューギニアの混乱を阻止するため、軍部隊を派遣すべし」という主張は、もしかしたらすでに行われていたこの種の作戦行動に「一定の論理的根拠」を与えるために、オーストラリア政府側が意図的に流したものなのかもしれない。


一方、こんなオーストラリアの行動に対し、怒りの抗議をしたのは、今や「四面楚歌」の状態に陥りつつあったナマ副首相だ。
ナマ副首相はメディアに対し、


「パプアニューギニア国内では現在、戦争は起こっていない。それなのに、100名ものオーストラリア陸軍特殊部隊(SASR)の隊員が、パプアニューギニア政府からの正式な承認手続きなしに、ハイランド地方に密かに展開している。これは危険な兆候だ」


と発言したのである。
このナマ副首相の抗議に対し、オーストラリア政府はSASRの投入自体をただちに否定したが、その否定の仕方も、どこか「落ち着いた」ものであった。


これらの特殊部隊は、オーストラリア政府が長年、多くの資金と年月をかけて大切に育成してきた重要な「戦略資産」である。
そして、国内が混乱する可能性があったとはいえ、表面的には平穏無事な状況にあったパプアニューギニアにこの部隊を投入したオーストラリア政府は、ササ大佐やナマ副首相のような人物が引き起こす騒擾に再び利用されかねない、パプアニューギニア警察と軍をも見張っていたのだろう。


もちろん、そんな騒擾に乗じて、中国が何らかの形で一気に入り込んでくる、ということまでオーストラリアはしっかり計算しており、実際にその危険性はあったのだろう。


つまり、この部隊を投入し、それを、オーストラリアの言いなりにならず「どこまでも暴走しつつある」ナマ副首相あたりに「発見」させながら、その存在を公式には否定するという政治的テクニックは、実際の騒擾に対抗する以上に、政治的なメッセージがあったと考えるべきかもしれない。


ソマレ氏の後ろに中国の影が見え隠れし、ササ大佐のクーデター未遂に便乗しようとするインドネシア当局の意図さえ強烈に感じ取っていたオーストラリアは、何がなんでもパプアニューギニアの安定を確保し、南太平洋の安全保障環境を死守しようとして、勝負に出たのだろう。



平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第二章 謀略渦巻く「豪中戦争」  pp. 113-116


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