「大どんでん返し」が起こった2012年総選挙
こんな緊張状態が続く中、2012年6月、事前の各方面における心配にもかかわらず、パプアニューギニアの総選挙が何とか始まった。
日本と違って、パプアニューギニアの選挙は、各地で時期をずらして開催される。
地方には通信インフラどころか、道路さえないところも多く、同日開催などできる環境すらないからだ。
したがって、選挙管理人らは約1ヵ月かけて各地を回らねばならないが、今回の選挙では、オーストラリア軍とニュージーランド軍が共同で250名の兵を出し、選挙管理人や投票箱の輸送などを含む選挙支援を行った。
ニュージーランド軍は空軍のみの参加であったが、オーストラリアは陸海空軍すべてから大型輸送機やヘリコプター、上陸用舟艇まで出したのである。
これは、オーストラリア軍の想定する有事対処にとっては、実に有用な実戦データ収集の機会となったことであろう。
テレビや新聞でも、オーストラリア陸軍航空隊の「ブラックホーク」という迷彩柄の輸送ペリコプターが、選挙管理人と投票箱を乗せて各地を移動し、選挙支援を実施している様子が報道された。
これを見ただけでも、この総選挙にかけるオーストラリアの意気込みというものがうかがえる。
そしてその意気込みを反映するかのように、総選挙の結果は、見事にオーストラリアの望むような形に落ち着くこととなったのである。
まず、ソマレ氏自身は圧倒的な人気で議席をきっちりと確保したものの、氏の息子として巨大な利権を握り、国民とは乖離したぜいたくな生活をしていると見られていたアーサー・ソマレ氏(前公共企業大臣)が、まさかの敗北を喫し、議席そのものを失った。
また、ソマレ氏の地元である東セピック州を守っていたワランカ州知事も敗北し、クーデター未遂を起こしたササ元大佐の弟であるササ・ジベ元農林畜産大臣も議席を失った。
マダンの水産加工団地を巡って白人議員フェアウェザー氏を襲撃した「忠臣」ベン・セムリ氏も敗北し、これによって「親藩」や「譜代の家臣団」らが軒なみ討ち死にし、ここに、長年続いた「ソマレ帝国」の崩壊が決定的となったのである。
その一方、「議会クーデター」でオニール政権を支持した議員らは次々と当選し、自身も圧倒的な強さで当選したオニール首相が、「新しい政権の発足」に対して非常に余裕のある発言をするようになった。
この段階で、オニール氏の「大勝」が決まり、今度こそ「合法的に」首相として返り咲くことが決定した。
あとは、自分だけは何とか生き残ったソマレ氏と、こちらも圧倒的なパワーで議席を確保したナマ副首相の「扱い」であった。
当選議員らの圧倒的な支持を確認したオニール氏が、そのままソマレ氏を追いつめるのか、そして、選挙直前になってオニール首相に「噛み付いた」ナマ副首相とどうやって付き合っていくのか、非常に気になるところであった。
そうして開票作業が続けられていたある日の朝、私のブログ(南太平洋島嶼研究会)の読者で、現地に駐在している日本人の方から、「ソマレ氏とオニール氏が手を組んだ!」との一報が飛び込んできた。
「まさか!」と驚いて地元紙のトップページを眺めたら、過去1年間、英王室や最高裁、国防軍や警察のみならず、それぞれのバックにいた「大国群」を巻き込みながら、凄まじい権力争いを演じてきた「二人の首相」であるソマレ氏とオニール氏が、仲良く並んで写真に収まっているではないか。
場所は、ポートモレスビーのエアウェイズ・ホテルである。
にわかには信じられないような光景であったが、これによってオニール氏は、「牙を抜かれた」ものの、いまだにカリスマ性を持ち、経験豊かなソマレ氏を取り込むと同時に、暴走し反逆してきた「汚れ役」のナマ副首相を切るという決断をしたのだ。
この2人の周りには、別の2人の首相経験者が囲むように座っていたが、長く出口のない「権力闘争」に終止符を打つ仲介を行ったのは、彼らだったのだろう。
平成25年7月25日発行
丸谷元人著『日本の南洋戦略』
第二章 謀略渦巻く「豪中戦争」 pp. 116-118