誰が中国をアヘン漬けにしたのか
大英帝国の暴挙
中国人にとって、日本人の過去がそれほど痛烈に逆鱗に触れるのなら、香港を99年間植民地にしたイギリスになぜ「償い謝罪せよ」と迫らないのだろうか。イギリスが中国領土の香港をどのようにして手に入れたのか。復習をすれば、中国の日本に対する姿勢がいかに異常であるかがよく見える。
イギリスは植民地インドで栽培した阿片(アヘン)を中国へ強制的に売り込み、中国全土を麻薬患者の巣窟にして、金儲けをしようと企んだ。当時の中国は、世界的に富める国で自給自足ができていた経済を維持していた。
金と領土拡大に目が眩んでいたイギリスは、中国が保有していた莫大な良質の銀を手に入れたかったのだ。イギリスの対アジア・人種差別もこの暴挙をやりやすくした。猛烈な中毒性を持っている阿片は、瞬く間に中国人を冒し、40歳以下の男は全員阿片を吸っていた。
また、中国軍の将兵も全員中毒になった。イギリスは抵抗した中国人を1839年から4ヵ年かけて皆殺しにして、巨額の賠償金を巻き上げ、広東や上海も自由に使うことにした(第一次アヘン戦争)。
第二次アヘン戦争
まだ足りないのか、港としてすばらしい地形を持っていた香港まで取り上げ、「99年間借りる」との要求を飲み込ませた。この弱い中国を見た欧米諸国は、同じような特権を中国からむしり取った。イギリスは、中国の海岸線で侵略、強奪、大量虐殺、そして日常茶飯に婦女暴行を繰り返した。
アへンが大量に持ち込まれる事態に激怒していた中国人たちが、イギリス船1隻を沈めた。逆恨みに怒ったイギリスはフランスにもうまい話を持ちかけ、中国を完璧なまで打ち負かした。これが第二次アへン戦争(1856年)である。
中国は、ずたずたに食い荒らされる。アメリカとロシアも食いに来た。驚くかな、中国はアへンの国内輸入を合法にさせられた。欧米諸国は、北京に治外法権の公館と住居地域をもつこと、キリスト教を自由に布教することを中国に同意させた。
外国人が北京に入ってくることを嫌悪していた中国人たちが、「招待されなければ入京してはいけない」と欧米の外交官を阻止した。また戦争(1859年)になり、また中国が負けた。この時はイギリス軍とフランス軍は北京を占領し、懲らしめのために宮殿を焼いた。
抵抗できない中国
日本は、まだ徳川時代(末期)で、新撰組と倒幕派が京都で斬り合っていた。ペリー提督の黒船到来で日本中が大騒ぎをし、250年間続いた鎖国が終わりかけた頃だ。日本は戦艦も大砲も持っていない農業国であった。
それから100年後、1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃でアジア・太平洋戦争が始まり、日本が中国に攻め入り、香港に駐留していたイギリス軍を一瞬にして破り、18日後クリスマスの日に降参させ、この重要な港から追い出した。
1945年の真夏、日本が敗北した直後、イギリスがまた香港へ戻って来て領主として居直った。毛沢東にイギリスを追い出す力がなかったのか。対日戦争で英国に助けてもらったので、「香港」という国辱に我慢をしなければならなかったのか。
西鋭夫著『日米魂力戦』
第4章「国の意識」の違い –20