日系人収容所
行政令9066
1937年7月7日(七夕の夜)の盧溝橋事件(中国軍がライフル銃1発を日本軍に撃って外れた)で、日本と中国の戦争が始まる。日本帝国は中国と戦いながら、1941年12月8日真珠湾に奇襲をかけ、日米戦争(太平洋戦争・大東亜戦争)に突入していった。
アメリカ本土ではルーズベルト大統領の命令(行政令9066)を受けたFBIと土地の警察が日系アメリカ人(1世と米市民の2世)全員12万6000人を1人残さずモンタナ州やアリゾナ州の荒野の真ん中に建てられたオンボロのバラックに収容、拘束した。
収容された日系人のうち63%は、アメリカ生まれの米国市民であった。1ドル、2ドルと懸命に貯めてやっと築いた財産も放棄させられ、「即座に」収容所送りである。日本帝国の真珠湾攻撃は「日系」にも責任があるという発想だ。
人種差別の正当化
ルーズベルトは「スパイ活動を未然に阻止するためだ」と明らかな人種差別を正当化した。最高裁判所も日系に対する緊急措置は、米国憲法からみて「合法」であると、人種差別のウイルスに冒されたかのように間違った判断を下す。ナチス・ドイツのドイツ系アメリカ人、ファシスト・イタリア系アメリカ人には何のおとがめもなし。
ハワイには15万8000人の日系人が住んでいたが、島自体があたかも収容所であるかのように隔離はされなかった。米本土で収容所に入れられた日系の若者たちは、母国アメリカに対して「忠誠心」を特別に示さなければならないかのように、次から次へと軍役に志願した。
ヨーロッパ戦線に送られた日系部隊は勇猛果敢で見事な戦いぶりをし、日系兵士を過小評価していた米国陸軍も褒め称えた。
ヨーロッパ戦線の日系兵士
第100部隊は全兵ハワイからの日系人、第442部隊は米本土の日系人で、ヨーロッパ戦線で2万5000名の合同部隊となる。
多くの戦死者を出した日系部隊は、米陸軍で最も数多く勲章を受けた部隊である。米市民である若い2世たちは、両親を敵とみなし罪人扱いにした国、自分たちをも敵視した国を護るため戦死していった。日系将兵の勇気と犠牲で、終戦後のアメリカ本土では日系に対する差別が急激に減少していった。
1948年には、最高裁がカリフォルニアから各州に広がった「土地家屋の所有権なし」の法律に「違憲」の判定を下した。
1952年に、1924年の「排日法」は破棄され、アジア人が「市民権」を申請できるようになった。1976年、ジェラルド・フォード大統領が日系市民に謝罪した。1988年、連邦政府議会は正式に謝罪し、最高裁判所も謝罪した。
西鋭夫著『日米魂力戦』
第3章「アラスカ半島でイクラ造り」−10