悲劇の60年代
三党首演説会
安保条約が成立しても、悲劇は終わっていなかった。
1960年10月12日、午後二時、東京の日比谷公会堂(皇居の濠をへだてた公園内)でNHK主催の自民(池田勇人)、社会(浅沼稲次郎)、民社(西尾末広)の三党首による演説会が開かれた。会場は、2500人以上の聴衆者で満員、押すな押すなの、むせ返るような熱気に包まれていた。
大きな体の、眼鏡をかけた浅沼稲次郎が、独特のしゃがれ声で演説を始めると、「共産主義の手先」とヤジが飛び交った。ヤジの嵐は、浅沼が前年(1959年)3月6日、社会党訪中団の団長として北京を訪れた時、「アメリカは日中共同の敵」と発言したと報道され大騒動になったことへの反動であった。
浅沼刺殺事件
浅沼が話し始めた午後三時過ぎ、学生服の上にカーキ色の作業着を羽織った17歳の右翼、山口二矢が演壇舞台の左側から脱兎のごとく飛び出し、白鞘33センチの短刀の柄を両手で自分の腹にあてて持ったまま全身で浅沼に体当たりをし、彼の左脇腹を深々と刺した。
浅沼の巨体がぐらりと揺れた。浅沼は山口を見る。浅沼の眼鏡がずれる。山口がもう一度刺す。浅沼は崩れるように倒れ、即死。NHKのテレビ中継で日本中が暗殺を目撃した。今でもあの衝撃的な映像は目に浮かんでくる。山口はその場で逮捕され、東京少年鑑別所に勾留された。
20日後、11月2日、山口は独房内でシーツを破って作ったロープで首吊り自殺をした。
キューバ危機
1961年1月20日、ケネディが米国史上最も若い大統領に就任する。若い世代に替わり、新しい使命惑に駆られた米国民の意気は盛り上がっていた。
だが、米ソ冷戦がさらに険悪な状態になり、ソ連はフロリダ沖のキューバに核ミサイルを持ち込み世界大戦の危機をもたらした。ケネディ大統領は米国民に「アメリカは核戦争の瀬戸際に立たされている」と警告し、全米軍に戦闘態勢につけと命令を下した。ソ連も核兵器の全面戦争に突入する用意をする。
国連安保理で、アメリカに写真で「キューバにミサイルあり」を見せられたソ連は、否定することができずミサイルを引き揚げた。ソ連は、1961年から東ベルリンに厚い鉄筋コンクリートの壁を作り、悲劇を数多く生み出すことになる自滅的な鎖国状態にはまってゆく。
西鋭夫著『日米魂力戦』
第5章 戦争と平成日本 -4