帝政ロシアの最期
日露戦争
1904年、日露戦争が勃発した。極東の小さな農業島国が大帝国ロシアに挑んだ。日本が踏み殺されると世界中が思っていた。しかし結果は、日本将兵の強さに世界中が驚嘆した。戦争中、ロシア国内で大規模な暴動が起こり、ニコライ皇帝が遠く離れた戦線(日本海と満州)に集中できずにうろたえている間に島国日本が勝った。
負けた帝政ロシアの威信は、つるべ落としのように落ちてゆき、ドイツに亡命していたレーニンたちに共産革命の時期到来と希望を持たせた。
オスマン・トルコの崩壊
1914年、欧米の列強を巻き込んだ第一次世界大戦が起こり、数百万人の戦死者を出した。ドイツ側についたオスマン・トルコ帝国は、ドイツ惨敗と同時に戦勝国イギリスとフランスとアメリカに食いちぎられるように弓き裂かれ小さな国々に分裂していった。
それ以来、中東で戦火が絶えたことはなく、今でも世界で最も危険な地域である。第一次大戦後、国際連盟が創立され永久平和を目指すが、歴史は次の世界大戦を待っていた。
若い読者への説明。1301年に誕生したオスマン・トルコ帝国は、中東全土とギリシャを制覇し、黒海に面した広大な領土、そして北はハンガリーやポーランドまでのヨーロッパを支配し、さらにアラビア半島とエジプトと地中海に面した北アフリカの全領域を統括したイスラム教の大帝国であった。600年間続いたが、1918年に潰された。
ニコライ一家の銃殺
第一次世界大戦は帝政ロシアにとってとどめの一撃で、世界史上初のマルクス共産原理主義国・ソ連邦の誕生となる。「進歩」の邪魔になると思われたニコライと家族全員(妻と娘2人と息子1人)は、レーニンの命令で銃殺された。
若い読者へ。明治元年・1868年生まれのニコライは、23歳の皇太子の時に来日して、暗殺されかかった。1891年5月11日、京都近郊の大津市で警備中の巡査にサーベルで斬りつけられ、額二カ所に切り傷を負った。
日本震撼の大事件である。大帝国ロシアに報復の戦争を仕掛けられ、潰されるのではないかとおののいた。2日後、明治天皇が東京の皇居から京都に出向かれ、ニコライをお見舞いされた。
遺骨埋葬式
大津事件から28年後、1919年7月16日、共産革命に成功したレーニンは、ニコライと家族の処刑を命じた。遺体は行方不明であったが、1991年ソ連が崩壊すると同時に遺骨が発見された。ソ連政府は遺体が埋められた場所を知っていたのだ。
DNA鑑定では、大津事件の血染めのハンカチが使われ、ニコライと家族の遺骨と判定された。1998年7月7日、帝政ロシアの首都・北のベニスと呼ばれた美しいサンクト・ペテルブルグで遺骨埋葬式が行われた。サンクト・ぺテルブルグはナチス・ドイツとの激戦で大きく破壊されたが、ソ連とロシアが修復した。
西鋭夫著『日米魂力戦』
第5章 戦争と平成日本 –32