歴史 2018/10/25

帝国の墓場


閑散とする空港

私は9月11日のテロ攻撃から2週間後、ボストンからサンフランシスコへ帰った。ボストン空港は大変に混雑するのだが、自分の歩く足音が聞けるほどシーンとしていた。厳戒令が敷かれたかのように、キリキリと緊迫した空気である。旅行者は数えられるほど少ない。米軍将兵が警備に当たっており、実弾を装填してある自動小銃を抱えいつでも撃てる態勢である。

乗った大きな飛行機もガラガラで、この状態が続くと航空会社が倒産するのではないかと心配になった。午後6時過ぎにサンフランシスコに着いて、もっと驚いた。広いサンフランシスコ空港の長いコンコースを出口に向かって歩いているのは、私を含めて5、6人。閑散としており、また人波の騒音がないので異様な光景である。迎えに来ていた妻と子供2人が遠くから確認できるほど人がいない。迎えに来ている人もいない。

サンフランシスコのテレビ局の女性記者(テレビでよく見かける人)が「お急ぎでなければ、お話を聞きたいのですが」とテレビ・カメラを私の顔に突きつけて、インタビューを始めた。他に旅行者がいなかったので、この記者はホッとした表情で「警備に当たっている兵士を見て安堵感が湧きましたか」と尋ねた。私は「実弾の入った小銃を持っているのを見て、まだそれほど空港が危ないのかと余計に不安になった」と答えた。


アルカイーダ掃討作戦

アフガニスタン戦争が始まった。最新兵器で完全武装された米軍が、軍服を着ていないタリバン・アルカイーダと呼ばれる武装テロ一味を討伐するため、ゲリラ戦を戦っている。

過去200年以上も無政府状態が続いている貧しい石器時代のようなアフガニスタンに侵攻していった世界最強の米軍は、タリバンを蹴散らしたが、悪性のウイルスが拡散したかのごとく戦線は隣国パキスタンの広い山岳地帯に広がってゆき、終わりなき戦いに巻き込まれ、今や出るに出られないジレンマにはまっている。

紀元前300年代の大昔、古代ギリシャの天才哲学者アリストテレスを家庭教師にしていた征服王アレキサンダー大王の時代から、アフガニスタンの異名は「帝国の墓場」である。シルク・ロードが横断し、アジアからヨーロッパへの「東海道」でもあり、戦略的に重要な場所に位置するアフガニスタン、あの水のない荒れ地に進撃した帝国は、例外なく、消耗し、潰れていった。


大英帝国の衰退

地球を支配していた大英帝国は、アフガニスタンで三度も戦争をした。広大なインドを植民地として「偉大なる帝国」の名声をほしいままにしていた英国は、帝政ロシアの南下に強い敵対心を抱いていた。国土半分がツンドラの国ロシアは、まずアフガニスタンを征服し、次にパキスタンを落とし、暖かいインド洋にまで領土を拡大することを企んだ。

1837年、ロシアと英国がそれぞれアフガン軍閥を使い、戦争を始めた。勝敗はつかなかったが、英国はロシア南下をくい止めた。だが、占領国として居座った英国に対するアフガン部族の感情は凶暴化してゆく。

1878年、またロシアが南下を開始した。この時も、英国はロシアの南下を武力で阻止した。ロシアと英国から「金と領土」の約束で雇われたアフガン部族は、「皆殺し・裏切り・策略・アヘン密輸」を生き残りの手段としており、優勢な側に躊躇もせず鞍替えするので、アフガニスタンは混沌とした無政府状態に陥ってゆく。


西鋭夫著『日米魂力戦』

第5章 戦争と平成日本 –31

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