学ぶことを忘れた日本人
均一教育の弊害
生徒たちが「混乱」すると心配される両親もおられようが、知的混乱こそが勉強である。その混乱を通り、知的整理がなされ、真の知識が形成されてゆく。
生徒や学生の能力を過小評価してはいけない。国が国民の知識を管理していた明治時代、情報収集が困難であった時代は、とうの昔に終わったのだが、官僚が全てを司りたがる心理だけは執拗に残っている。お上が国民を信用していないからであろう。日本で民主主義が成長し続けないのは、このあたりに原因があるのかもしれない。
子供たちには得意不得意があるのにもかかわらず、全ての生徒が同じ科目を同じ速度で学んでゆく。その科目が得意な生徒は待たされ、退屈し学習意欲まで失う。得意でない生徒は、時間をかけるほど劣等感に苦しむ。
均一原理が通用するのは製造業だけであり、教育というかけがえのない文化創造の世界では「均一教育」は毒性の悪平等に変形し、子供を潰す。国を潰す。生徒たちは国の宝で、ロボットではない。
ノーベル賞の日米比較
日本国民が大好きなノーベル賞で、日米間の教育落差を示した100年間の統計がある。1901年に設立されてから2002年までに、日本人受賞者総数は、湯川秀樹博士が物理学賞を受けた1949年から数えて、12人。
日本人口の2倍の米国でノーベル賞を授与された人は、270名。米国270対日本12で、競争になっていない。スタンフォード大学一校でノーベル賞を与えられた学者がのべ33名。フーバー研究所だけでもノーベル賞(経済学)を受けた学者が現在4名いる。
時代遅れの教授法
ノーベル賞が全てではないが、国の教育水準を計る物差しにはなる。水準だけではなく、教育方法を再検討しなければならない統計でもある。
私は数多くの日本人留学生を見てきた。それぞれ優秀だ。日本人の能力や努力が米国人に劣っているとは思っていない。だが、日本の大学では、未だに海外の学者が英語で書いた教科書を翻訳するのが専門的な学習だと思われている。
「原書・専門書」と名がついている授業では、週に10ページを訳す作業が勉強だ。これでは日本の学術は進歩しない。平成日本は、欧米の知識(原書)を翻訳で吸収した明治初期の「文明開化」の時ではない。
西鋭夫著『日米魂力戦』
第5章 戦争と平成日本 –20