中東の変
イラン革命
米国が打ちひしがれ、人心が混沌としている1979年の初め、豊富な油田を持ち、親米の国として大切にされていたイランで、イスラム原理教徒による「大革命」が勃発した。
フランスに永年亡命していたアヤトラ・ホメイニ師(79歳)に指導されたイラン国民が、鬱積した怒りを爆発させたかのような、突然の大革命であった。
イラン国王は、1月16日、命からがら国外へ逃亡する。アメリカに亡命したかったのだが、米政府(カーター大統領)はイランの豊富な石油を手放したくないため、長期滞在を認めない。
だが、国王が末期ガンを患っていることが判明したので、アメリカで治療を受けさせた。
テヘラン米大使館占拠事件
この「悪魔の国王がアメリカにいる」ことで怒り狂った革命軍(学生が行動隊)の500人が「イランの不幸はアメリカの責任だ」と凄まじいまでの憎悪をかき立て、同年11月4日テへランの米大使館を占拠し、職員52名を人質に捕った。
そして、「国王を人質と交換する」と米政府に攻め寄る。
裏切られたイラン国王
高圧電流のショックを受けたかのような震撼がアメリカ全土を襲った。「何もしないアメリカを攻撃する悪い国がいる」と認識したアメリカでは、ベトナム後遺症のうめき声がビタリと止まった。ベトナム症候群の高熱が下がる始まりだった。
米政府はイラン国王を人質交換に使うつもりはなかったが、米滞在は困ると国外へ出てもらう。真の友人だと思っていたアメリカに背かれ、国王は安住の地を求め世界を放浪するが、母国イランを追い出されてから1年半後(1980年7月27日)、エジプトのカイロで寂しく病死した。
60歳の若さであった。
アフガン侵攻
ソ連はベトナム戦争で宿敵米国が「争いアレルギー」を患っていると読み、テヘランの大使館を乗っ取られても、また人質を取られても何もできない国だと考え、領土拡大の暴挙に出る。
1979年12月、ソ連がアフガニスタンへの侵略を開始した。カーター大統領は怒り狂うが、1980年にモスクワで開催される夏のオリンピック(7月19日〜8月3日)をボイコットしただけであった。日本も追随して、ボイコット。イギリスとフランスは参加。
帝国の墓場
「帝国の墓場」という異名を持つアフガニスタンは、ソ連帝国の命取りになる。
過去にアフガニスタンに侵入した帝国は必ず滅んだ。ソ連国内で猛烈な反戦運動が広がってゆき、楽勝と思っていたアフガン戦は泥沼化していった。
ソ連は消耗し、金もなくなり、あたかも空中分解をしたかのように崩壊し、さらに貧しいロシアとなって堕ちてゆく。
西鋭夫著『日米魂力戦』
第2章「アメリカの怨霊・ベトナム」−31