歴史 2018/05/31

世界の名著『武士道』


『武士道』に感化された米大統領

新渡戸は、世界の名著『武士道』(1900年出版・原文は名文の英語)の著者である。この127ぺージの小冊を読んだアメリカの豪傑大統領セオドア・ルーズベルトは深く感動し、自分の子供や親戚一同はもちろんのこと、ホワイト・ハウスの側近全員も文章を暗記させるほど熟読させた。

1904(明治37)年2月9日に日本連合艦隊が、旅順港外に停泊していたロシア艦隊を撃沈して始まった日露戦争では、ルーズベルトは日本を応援し、日露戦争を終結させるためニュー・ハンプシャー州ポーツマスで和平会議(1905年9月5日)を開き、日本有利に話をまとめてくれた。

Bushido: The Soul of Japan (1900)

『武士道』のおかげである。世界中で翻訳され、歴史に残るベスト・セラーになった。


曲解された武士道

だが、日本国内では日本全権大使・小村寿太郎外相が、ロシアに譲歩しすぎたと新聞等により煽られ、大きな犠牲を払った日本国民の憤りは「日比谷焼き打ち事件」と言われる暴動にまで発展していった。

しかし、シベリア横断鉄道を起工した人物・ロシア全権ウィッテと難しい交渉をした時の小村大使の凜とした態度は、ポーツマス市で「武士道そのもの」と高く評価をされていた。今でも、されている。

戦後日本で、武士道は軍国主義と錯覚され無視されており、学校教育では、他力本願で手を合わせるかのように、相も変わらず国連とユネスコが世界の平和を守っていると教えている。


米国とユネスコ

米国は、1984年、ユネスコから脱退した。ユネスコの維持費を50年間1番多く出資していたが、多くの発展途上国(運営費を出していない、出せない国々)が1国1票を盾に群れを組んで、多数決でアメリカの意思を通さない。それどころか、ユネスコの内部で汚職と腐敗と縁故雇用が日常茶飯に横行していた。

堪忍袋の緒が切れた当時の米・国務長官ジョージ・シュルツ(現フーバー研究所在職)が脱退を宣言した。レーガン大統領の時である。イギリスも脱退したが、のちに復帰した。

米政府は、2001年9月11日の大惨事を境に、アフガニスタンで活躍を続けていたユネスコを再確認して、2002年9月12日にブッシュ大統領が国連総会で演説中「アメリカはユネスコに復帰する」と発言し、やんやの喝采を浴びた。18年ぶりの復帰である。


日本とユネスコ

米国は、ユネスコの2003年度予算の22%の6000万ドル(72億円)を出資するが、ユネスコ内部で腐敗が続いているとみている。現在、ユネスコ加盟国は188ヵ国で、準加盟国は6ヵ国。日本のユネスコ加盟は、1951年7月2日(米軍日本占領中)で、国連加盟よりも5年早かった。

ユネスコ創立以来、初めてアジア人が事務局長(任期6ヵ年)になった。1999年11月15日、日本人の松浦晃一郎(元フランス大使)がユネスコの腐敗を一掃すると期待され、選出された。

これを祝うかのように、日本はユネスコ予算の32%の8900万ドル(106億8000万円)を出す。また1番多く出さされている。また日本と米国の2国だけがユネスコ予算の半分以上、54%を出資する。ユネスコでの公用語は英語とフランス語である。日本語も公用語に加えてはいかがなものか。


西鋭夫著『日米魂力戦』

第4章「国の意識」の違い –28


関連記事