歴史 2017/12/14

ベトナムの怨念


ロッキード事件


悪いことをすると、罰があたるとは本当なのだろう。1976年2月上旬の米議会外交委員会で、ロッキード社のコーチャン副社長が田中角栄元首相に「5億円」支払ったと賄賂を認めた。総額36億円の中からの5億円だ。

これが日本で「ロッキード事件」として発展してゆく。田中は同年7月に逮捕、元運輸大臣も逮捕、元運輸政務次官も逮捕、丸紅と全日空の幹部も逮捕、国会議員17名と官僚460名が取り調べを受けた。

田中角栄(左)とリチャード・ニクソン(右)


癒着


極めつけは、有罪になった元運輸政務次官佐藤孝行が、1997年9月の第2次橋本龍太郎内閣の総務庁長官になり、「行政改革」を担当する役職に就いたことである。

怒りをあらわにしたのは日本国民だ。佐藤は1週間で辞任。橋本首相は見識まで疑われ、支持率は急速に低下していった。

「ロッキード事件」をベトナム戦争の暗い余波と見るか、それとも権力を握った政治家がその権力に溺れ、私欲に溺れ、不正と知りつつも平然と法を犯した刑事犯罪として片付けるべきか。金と政治の癒着は腐貺への甘い罠であり、その甘さを1度味わうと麻薬のように心まで冒すのであろう。


カーター政権の誕生


「ピーナッツ畑のお百姓さん」と自分に綽名をつけて、突然現れた53歳のジミー・カーター(民主党)がフォードを破り、大統領になった(1977年1月20日)。副大統領は、後に駐日大使を務めることになるウォルター・モンデール。

敬虔なキリスト教徒であるカーターが、深く傷ついた米国を癒してくれると国民は強い期待を持った。私もカーターがテレビ演説をするのを何度も見た。

「人道的・基本的人権」といった言葉が頻繁に使われていた。大統領としては弱々しいと思ったが、好感がもてる人だった。


ベトナム後遺症


「ベトナム戦争」はタブーであり、沈黙が最良の選択であるとの雰囲気が米全土を覆っていたが、体と心に負った深い傷口から血と膿が流れ出しており、米国民は自己嫌悪に耐えるのが精一杯であった。

沈黙にもかかわらず、いや沈黙ゆえか、ベトナム後遺症は建国以来国民を支えてきた「国の誇り」までをも侵食しはじめた。あがく力もないほど、アメリカは消沈していった。

カーター大統領は、ベトナムの深傷の1つである、国外へ逃亡した「ドラフト・ドッジャー」に全面恩赦を与え、帰国するよう呼びかけたが、帰ってきた者は僅かであった。



西鋭夫著『日米魂力戦』

第2章「アメリカの怨霊・ベトナム」−30


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