ニクソンの曲芸
ベトナム人の戦争
ベトナムで勝てないと判断したニクソンは、「この戦争はベトナム人が戦うべきだ」とカメレオンのごとく変身し、南ベトナムに駐留していた56万人の米兵を3年後には16万人までに減らした。B52による北ベトナムへの大空爆は続行である。
パリでの和平会議も断続的であったが、喧嘩をしながら続いていた。優勢に戦争を進めていた北ベトナムは和平に全く興味を示さず、「米国帝国主義」という非難を繰り返していた。
事実、1971年1月21日のパリ和平会議は100回目であった。著名なキッシンジャー博士も努力するが、進展はない。キッシンジャーは「タカ派」で、戦争続行を強く推した理論家である。
原水爆投下構想
ニクソンは1969年に、北ベトナムに原水爆弾を投下することさえも考慮したが、「それはあまりにも残酷すぎます」とキッシンジャーがニクソンを止めた。
この衝撃的な事実は、2002年3月1日に公開されたニクソンのホワイト・ハウスでの会話を秘密裡に録音したテープで明らかになった。
ニクソン・ショック
1971年は、ニクソンが日本とアジアに激変をもたらした年でもある。日本で「ニクソン・ショック」と名づけられた二大事件である。
ニクソン大統領は、1971年7月10日(米時間)突然、中国を「国」として認めると発表した。日本は、共産主義の中国(建国1949年)は「国家」として存在せず、「国交」なぞありえないという米政府の台詞を声を張り上げ繰り返していた。
「中国は存在し、国交を結ぶ」のニクソン宣言は、「太平洋のパートナー」と何らの事前相談もなく、日本を完全に無視し、日本を裏切ったアメリカの大国外交であった。
日本嫌い・中国大好きのキッシンジャーの戦略であろう。そのニクソン宣言と同時に、キッシンジャー大統領補佐官は、北京へ飛び立っていた。
西鋭夫著『日米魂力戦』
第2章「アメリカの怨霊・ベトナム」−21