ディエム政権の腐敗と日本
日本の関与
(9)当時、アメリカの大学で「ベトナム」を専門的に研究していた教授は1人もいなかった。ベトナム語を学んでいた学生の数は、全米で30人以下である。
手探り状態のまま、無知のまま、重武装をした米軍将兵は、東南アジアの熱帯雨林が底なしであるとは知らずに突入していった。
(10)ここに、米軍占領から独立したばかりの日本が登場する。南ベトナムはサンフランシスコ平和条約に調印したので、条約に従い日本には賠償する責任が生じた。
両国間で永い話し合いがされ、1960年1月12日、協定が交わされ、日本が5年間で3900万ドル(当時の1ドル360円で、140億円)を「物」で賠償し、また750万ドル(27億円)を低利で貸しつけさせてもらう。日本の対南ベトナムへの賠償が解決した。
日本とアメリカからの莫大な資金投入は、ディエムの腐敗を加速させる。
サイゴンにはモノが腐ってゆく時に発生する甘い死の臭いが漂っていた(1960年は、日米安全保障条約への反対運動で、日本が転覆するのではないかと思わせるほどの国家非常事態であるのにもかかわらず、なぜ日本が米軍事戦略に加勢したのかという議論もあるが、念願の独立を与えて頂いたと信じていた日本国民は米国の言う通りに動いた。米軍の「反共戦争」に反対できる日本ではなかった。日本の首相は、岸信介である)。
甘い死臭
(11)ディエムの仏教弾圧と腐敗は終わることなく、南ベトナム市民の生活はより厳しくなり、彼らは忍耐の限界にまで追い込まれていた。
ディエムが完全に支配していたと思っていた軍隊までが反抗の兆しを示しだした。このままでは勝てないと判断したケネディ大統領は、ディエム政権を終わらせたいのだが、ディエムが耳を貸さない。
ケネディの命令を受けたCIAは策略を練り、ベトナム軍の仏教徒将校を唆した。アメリカの意図を理解した将校たちはクーデターを起こし、ディエムと彼の実弟(秘密警察の長)を暗殺した(1963年11月2日)。
ケネディは軍がクーデターを起こすことを事前に知らされていたが、ディエムには教えず見殺しにした。ケネディはディエムを高く評価し、南ベトナムへ送り込んだ有力議員の1人であった。
西鋭夫著『日米魂力戦』
第2章「アメリカの怨霊・ベトナム」−15