近衛文麿の遺言
From:岡崎 匡史
研究室より
GHQから逮捕命令が出され、「A級戦犯」に指名された近衛文麿(1891〜1945)は、1945(昭和20)年12月16日(日曜日)の未明、青酸カリを服毒して自殺した。
近衛文麿に対して、さまざまな評価がある。
日中戦争を拡大させた意志薄弱な無責任政治家だ。いや、良心的な平和主義者であった。そうではない、共産主義者にだまされたに過ぎない。あるいは、新憲法草案の執筆に失敗したので見殺しにされたのだ、というように人物像が錯綜している。
近衛日記
近衛が自殺してからまもなく、1945年12月下旬から十数回にわたり『近衛公手記』が「朝日新聞」に掲載され、日米交渉の経緯が明るみになった。
しかし、近衛の人物像に大きなブレがあるように、補足や一部が削除された『近衛日記』が複数ある。
・日本電報通信社刊『平和への努力ー近衛文麿手記』(昭和21年4月)
・朝日新聞社刊『失はれし政治ー近衛文麿公の手記』(昭和21年5月)
・共同通信社刊『近衛日記』(昭和43年3月)
『近衛日記』は戦渦の間に消失したという噂も流れたが、東京の近衛の自宅や秘書が保管したり、場所を転々としながら、終戦後は軽井沢で補筆されたとされている。共同通信社の『近衛日記』は、秘書に口述筆記させていたもので、筆跡から秘書のものだとされている。
遺書
近衛文麿の文書で、多くの日本国民の目に留まったのは、近衛の「遺書」であろう。
12月15日(土曜日)の深夜、家族や使用人が寝静まった頃、近衛文麿は次男の通隆(1922〜2012)と話し込んでいた。父親の自殺を予期した通隆は、「今夜は一緒に寝ましょうか」と言ったが、父親の文麿は「いつもの通り独りで寝かせてくれ。しかし少し話して行ったらどうか」と夜中の2時頃まで話し合っていた。
その際、道隆は「何か書いておいて下さい」と頼んだ。
「なにか書くものを」と言葉少なめに言った近衛文麿は、次男が差し出した用紙に「字句の整ったものではないが、僕の今の気持ちはこうだ」と書き綴った(矢部貞治『近衛文麿』読売新聞社・1976年)。これが、近衛文麿の「遺書」となる。
僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した。之に対し深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として、米国の法廷に於て、裁判を受けることは、堪へ難い事である。殊に僕は、支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そして此解決の唯一の途は、米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今、犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。
しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへ、そこに多少の知己が存することを確信する。
戦争に伴う昂奮と激情と、勝てる者の行過ぎた増長と、敗れたる者の過度の卑屈と、故意の中傷と、誤解に本づく流言蜚語と、是等一切の輿論なるものも、いつかは冷静を取戻し、正常に復する時も来よう。其時初めて、神の法廷に於て、正義の判決が下されよう。
ー岡崎 匡史