翻訳力
From:岡崎 匡史
研究室より
『フーヴァー・ダイジェスト JAPAN』がようやく完成。
西先生の2年間以上もの長きにわたる交渉により、日本語版を出版する運びとなりました。
論文の品質を保つために、翻訳・編集作業に膨大な労力が費やされました。「フーヴァートレジャー事業」とも並行していたので、西先生も大変ご苦労されました。
実際の作業に10ヶ月以上もかかり、私も頭が割れるように痛くなり、何度も逃げたくなる衝動に駆られました。
『フーヴァー・ダイジェスト JAPAN』の編集で、私が強く自分を律したことは「カタカナを使わない」ということです。もちろん、人名や地名などの固有名詞、やむを得ない場合はカタカタで表記しました。
日本語力
翻訳作業をしていると、簡単な英語ほど、和訳が難しい。
たとえば、「Positive」を「ポジティブ」と訳出していたら、翻訳者失格である。英語をそのままカタカナにしていたら、翻訳者の存在意義はない。
文意に応じて、「前向き」「良好な」「積極的な」「好意的な」という訳語が出てくるし、医学関連であれば「陽性」という言葉が浮かび、哲学であれば「実証」(経験的事実に基づいた)、法律であれば「実定」(人為的に定められた)というように、一つの言葉が変幻自在します。
学術的な高度な内容を把握し、文脈と作者の意図を汲んで訳出しないといけません。だから、翻訳は「日本語力」が問われるのです。そんな私の精神状態の目に留まったのが、村上春樹の『翻訳(ほとんど)全仕事』という本でした。
ライ麦畑でつかまえて
村上春樹といえば、サリンジャーの小説を『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という題名で翻訳した人物だという印象が強い。これまで、『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳)という優れた翻訳があるのに、こともあろうにカタカナで本のタイトルをつけた。
もっと工夫ができただろうに、、、
しかし、村上が『ライ麦畑でつかまえて』という題名を使えるはずもなく、原題のニュアンスを正確に伝えるには『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で行くほかなったという。
村上自身、「僕みたいなのがのこのこ新訳を出すと、野崎訳を刷り込まれていた人はむろん頭にきます。自分の大事な聖域に泥靴でずかずか踏み込まれた」のだからと語っている。
移りゆく翻訳
村上春樹が新訳を出す動機も一理ある。
たとえば、1960年代の日本の小説を読み返してみると、いまだに古びていない作品はたくさんある。ところが翻訳の文章は、訳者の言葉の選び方、文章の流れ、時代感覚が反映されるので、どうしても時代にそぐわなくなる。これは避けられない現象で、「古びないオリジナルはいっぱいあるけれど、多かれ少なかれ古びない翻訳はない」のだという。
村上の言葉は、翻訳に四苦八苦していた私を大いに慰めてくれた。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
村上春樹『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』(中央公論新社、2017年)