白鳥庫吉とランケ史学
From:岡崎 匡史
研究室より
白鳥庫吉は、日本における東洋史の創始者であり、開拓者でもある。
白鳥庫吉は、慶応元年(1865)年2月4日、上総国長柄長谷村(現千葉県茂原市)で生まれた。戸籍簿名は「倉吉」。
しかし彼自身は、「我が名は庫吉である」と終生改めることはしなかった。出生届け出の際、村の役人が間違って「倉吉」と名前を登録してしまったらしい。
千葉中学での出会い
14歳で千葉中学に入学した白鳥庫吉の前にそびえ立ったのは、校長の那珂通世(なか みちよ・1851〜1908・文学博士)。千葉中学は、校長の那珂通世の方針で日本文典に軸が置かれ、なおかつ英語・漢学・数学が重視された。
しかし、那珂は一年たらずで東京に転任し、翌年に三宅米吉(1860〜1929・歴史学者・文学博士)が英語教師として来任した。 この類い稀な二人から感化を受けた庫吉は勉学に励み、明治15年に千葉中学を首席で卒業。
大学予備門を経て、22歳のときに帝国大学文科大学に新設された史学科に入学した。
ランケ史学との出会い
白鳥庫吉の学問の基礎は、学生時代に形成された。彼の学風は「漢学とのたたかい」であった。
東洋史学者として成長してゆく白鳥庫吉に大きな学問的影響を与えた人物は、歴史学者ルートヴィッヒ・リース(Ludwig Riess・1861〜1928・ドイツ系ユダヤ人)。1887年、リースが26歳のときに「お雇い外国人」として東京帝国大学史学科講師として招聘された。
リースは、歴史学に「実証主義」を持ち込んだレオポルト・フォン・ランケ(Leopold von Ranke・1795〜1886)の学風を継承していた。
晩年、白鳥庫吉は身体を崩すが、病床の枕元に置いてあったのが「リースの講義ノート」。学生時代のノートを肌身離さず大切にしていた。
純正史学
リースが重視した「実証主義」とは、「史料に即して研究し、そこから直接判断できること以外には言及しない」という手法である。
実証主義を貫くことで「政治的党派性」から離れ、歴史学の科学性を担保しようとした。先入観や予断を排して、「史料をして語らしむ」という研究姿勢となる。
現在の歴史学では「実証主義」は当たり前である。
だか、当時の学者は漢学の影響を受けていた。だから、あの頃の歴史学界では「実証主義」は斬新に映ったのだ。実証主義が紹介された当時の日本では「純正史学」とも呼ばれた。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・吉川幸次郎編『東洋学の創始者たち』(講談社、1976年)
・津田左右吉『津田左右吉全集 第24巻』(岩波書店、1965年)
・三島一「白鳥博士の学風」『白鳥庫吉全集 月報7』(岩波書店、1970年)
・中山治一「ドイツ史学の受容と白鳥博士」『白鳥庫吉全集 月報9』(岩波書店、1971年)
・ルートヴィッヒ・リース『ドイツ歴史学者の天皇国家観』(講談社学術文庫、2015年)